人生、即、芸術。絵を描く行為が芸術なのではない。

岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。
別のページにも似たような表現があった。「芸術は技巧や形式ではなく、自分が自分自身になるための手段だ」と。
岡本太郎にとって、単に絵画や工芸や何らかの制作物があるからといって、それは芸術とイコールではなかったのだ。
太郎の両親も世間一般の常識からかなり外れた生き方をしていたので、そんな影響も大きかったことはうかがえる。
そして、親から受け継いだのは、他者の目を気にせず、自らの美意識だけを頼りに生きるという、人生観だった。つまり生活が芸術であるということだったようだ。
太郎にとって作品制作は手段であって、目的ではなかった。それは、自らの思想を込めて社会に送り出すキャリアー(搬送台車)のようなものだったと筆者は語っている。これはわかりやすいたとえだ。
絵画、彫刻、執筆、テレビ出演も仕事としてやっているわけではなかったようだ。本職は何かと聞かれたときに、どうしても本職って言うんなら「人間」だと答えたらしい。これも彼らしい信念の現れだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の肉体がセンサーであり、自分の感性しか信じていない。
岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。
太郎は伝統主義との対決をしていた。それは、誰か偉い人がそう言ったからと言って、そのまま信じていることの愚かさでもあった。
一見典型的な日本のように言われている京都も、かつてはそうだったかもしれないが、いま残っているのは、恰好だけという。そう言われてみれば、それは現実の日本ではなかった。
奈良にしても、大陸文化そのものだった。古代の中国や朝鮮からの直輸入で、日本ではないと考えていた。
つまり、太郎は、誰もが当然だとか、常識と考えていることを鵜呑みにすることはしていなったのだ。もっと本質的なものを追求していたのだろう。
大事なのは、まわりの評価ではなく、己の価値観だけを信じて前に進むことだった。これも、一平・かの子譲りの人生観だったようだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すべての古典はその時代のモダンアートだった。
岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。
これは忘れがちなことでもあるが、なるほどと思える。数百年もまえの歴史的建造物や創作物はその時には、どこにも見当たらない新鮮なものだったに違いない。
しかし、現在からみれば、すべては古典になってしまう。太郎が残した言葉には「法隆寺は焼けてけっこう」というのがある。失ったらもっとすぐれたものを作ればいいのだとも考えていた。
単に古いというだけで、守るべき伝統と考えるのはおかしかった。当時は、価値があったものでも、今も文化的・芸術的に生きて躍動しているわけではなかった。
太郎にとって常に大事なのは、過去でも未来でもなく、この瞬間瞬間に生きることだったのだ。形式よりも生命力こそに重きを置いていたようだ。