日常生活で、どれだけ感動が得られるか・・・

「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。
ここでの日常生活とは、普通に学校に行ったり、仕事をしたりしている平日のことをさしていた。リゾート施設や旅行に行けば楽しいのは当たり前だが、それだけではつまらない。
むしろ、特別なところに行かなくても楽しめることが大事だということだろう。それにはセンスがなければならない。非日常的なものだけで楽しく過ごすのは誰でもできることだろう。
むしろもっと身近にあるもので、小さいものでも、面白いものやオシャレなもの、カッコいいもの、感動できるものにいかに気づけるかというセンサーが大事なようだ。
イベントをつくりだしていくというプロセスも楽しみたい。それも個性的なものであるほど楽しそうだ。ここでの結論は“日常生活の中に、興奮できるものを見つけよう”となっていた。
最近は、近所の植物を眺めては、デジカメで撮影しているが、実に知らない植物に出会うのが楽しいと感じている。また、その際、たまたま出会った人に植物の名前を教えてもらえることもある。そんな時はトクした気もするな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

センスのある人は「どうせ」同じということを「どうせなら」に切りかえる。
「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。
「どうせ」ということは、手抜きにつながっていくようだ。なんだか面倒なことに使ったりもする。いろいろなことを省略してしまうときに使っている。
「どうせなら」は逆にエネルギーが必要なことだった。たとえば、「どうせここまで来たのなら」ついでにここにも行ってみようというふうになればいいようだ。
何かを作る際にも、「どうせなら、もっと人が喜びそうなものにしよう」などと考えられれば前向きな証拠だろう。日常生活では「どうせ」のほうがほとんどかもしれない。
センスを上げるには「どうせ」を「どうせなら」に変えるといいようだ。そういえば、過去には、どうせ書くなら、自分だけのオリジナル一筆箋を作ってみようと試みたこともあったな。今でも使っているが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同じ笑顔しかないと、それは笑顔という仮面になる・・・
「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。
単に笑顔であればいいというものでもなかった。それが“いい笑顔”かどうかが問題だったのだ。今までそんなことは考えたこともなかった。
中にはつまらない笑顔もあったかもしれない。人によっては冷たい笑顔もあるようだ。誰にでも同じような笑顔というのもつまらない。
笑顔のバリエーションが持てるようになれば、いい笑顔になるようだ。それが持てなければ、笑顔という無表情だともいう。おもしろい表現だ。
ここでのアドバイスは“ただの笑顔ではなく、いい笑顔ができるようになろう”だった。これもかなり意識して練習しないといけないな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
センスは余裕からしか生まれない。
「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。
まさにその通りだろうと思える。いっぱいいっぱいの人には、センスなど考える余裕はないものだ。
とくにユーモアのセンスは、かなり余裕がないと出てこないだろう。それは自分も相手もそこそこ気持ちにゆとりがある時だ。
筆者は面白いことを提案していた。それは辛かったその日のことを日記に書くなら、3日後に書くといいという。それは3日も経てば、いいことが起こったようにも思えるからだった。
数日経てば、ものごとも客観的に見られるようになって、いい経験になったと思えてくるというが、それは当たっていると思える。
苦しかったことも、思い出となれば、まるでいいことだったかのように思えるから不思議なものだ。過ぎ去ったことは、美しく見えたりするものかな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・