二割五分と三割の差・・・

私塾のすすめ齋藤孝梅田望夫著より。
梅田氏の発言のなかで興味深い指摘があった。それは野球の打者にたとえている部分だった。打率二割五分なら並みのバッターだろうが、三割に到達すれば一流と言わる。その差は一週間でみれば、わずかヒット一本の差だったのだ。
具体的な数字がある。年間500打数として、125本打てば2割5分。150本なら3割打者になれる。つまりその差は25本になる。約半年間で1シーズンなので、1週間にすればわずかヒット1本の差だという。これだけみればほんの少しの差ではあるが、三割を乗り越えるには全く違う何かが必要になるようだ。
打率ということでみれば、規定打数以上に打席に立ったからといって、当然上がる可能性があるわけではない。むしろ下がることを恐れて、ペナントレースの終盤では首位打者がかかっている場合の2人の選手がいれば、あからさまに出場しないこともあった。でも、それではファンは面白くはない。
イチロー選手はむしろ打てば増えていくシーズン「200安打」という高い目標をかかげているようだ。このような目標もファンを楽しませてくれる。数年前に262本を打って、メジャー記録を塗り替えた時の興奮は世界中を沸かせたものだったな。
競馬では武豊騎手は3000勝をしているが、負けている方も多く10000回を超えている。結局、勝ちや成功の陰にはとてつもない数の負けがあるということも事実なのだ。かなり前に読んだ本の中にもあった、トップセールスマンは最も多く断られた人でもあるというようなことを思い出したな。(ややタイトルのフレーズとはずれてしまったが)

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仕事対象への愛情がないとサバイバルできない・・・

私塾のすすめ齋藤孝梅田望夫著より。
このサバイバルとは文脈からすると、あまり難しく考えずに生き抜いていく、競争に勝っていくというような意味だと感じられる。そして、競争の世界で勝ち続けるためにはその仕事自体がどれほど好きかということが問われそうだ。
営業の世界でもそれは現れやすい。トヨタトップセールスマンは、とにかく根っから人が好きで、未知の人と出会うのが好きらしい。1年経ってからまた会えることに、心からわくわくするらしい。この人に勝てる人は、同じレベルかそれ以上に仕事が好きな人だろう。
梅田氏のちょっとした体験がここにはあった。それは対談のイベントを行った際、そこに参加していた日経BP社のある記者が、さっそく深夜にその記事を自社のサイトにアップしたという。そのスピード感は組織の人が普通のやり方ではそこまで行かないだろうという。
梅田氏も他のブロガーたちも驚いたという。とにかくこの記者は「記事を書くことが好き」だからこそできたのだ。ある意味趣味と仕事の境目がない人だともいえそうだ。単に義務感で仕事をしてしているだけでは、好きでその仕事をしている人には絶対勝てそうもないな、ということを感じさせる。


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深海魚と出会えるくらいに深くもぐらなくては、物事は身につかない・・・
私塾のすすめ齋藤孝梅田望夫著より。

いきなり深海魚という比喩が出てきたので、インパクトがあり面白い表現だと思った次第。仕事にしてもなんでも長年やっているからと言って、それを深く知っているとは限らない。けっこう惰性でやっていることも多いことに気づく。
振り返ってみれば勉強も仕事も深くやったとは思えない。ただいろいろな経験はしては来たものの、身についたものなどほとんどなかった。齋藤氏はプロ野球のキャンプみたいなものが好きらしい。それはつまり合宿であり「なんとか月間」のようにあるテーマをある一定の期間に成し遂げようというものだ。
学校でいえば、すべての教科を同じようにはできないなら、「この1か月は単語だけ」「この1か月は数学だけ」というふうに集中することで深い勉強ができたと振り返る。そうすることで深海魚に出会えるらしい。
物事を身につけるということは、そのように深く潜ったときになる。ある意味、オタクに似ていそうだ。多くの人は深く潜る前に浮かびあがってしまうのだ。ここに齋藤氏の友人のエピソードがあった。
大学時代その友人は司法試験浪人をしていたが「いろんな用事があって、勉強に集中できない」と言っていた。そこで、齋藤氏はまた「この世に用事なんて一つもない。・・・それは司法試験に本気じゃない。・・・」と続けたのだ。
そして用事を切るようにアドバイスをしたという。その友人がやってみると、用事がなくなって集中できたらしく、試験に受かり感謝されたようだ。これを聞いていた梅田氏は、時には「義理」なども捨てることは大事なことだと述べていた。自分を集中できる状態に置くにはそれなりの努力も必要そうだな・・・

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とにかく、どんなことがあっても「Fine」・・・
私塾のすすめ齋藤孝梅田望夫著より。
梅田氏の経験から、「How are you?」ときたら、必ず「Fine」になるという。どうしてなんだろう?日本的感覚なら、「調子、どう?」なんて聞かれることもしばしばだか、そんなときは「イマイチ」だとか「う〜む、あまりぱっとしない」などと答えてしまいそうだ。
齋藤氏も、大学生のときマンツーマンで英会話を習っていたが、そのとき先生に「How are you?」ときかれた時、「昨日空手でここを痛めた・・・」というようなことを言ったら「Fine」でなければならないと言われたそうだ。
その2つはペアになった言葉のようだ。もし、「Fine」でなければ、人はやってこないし、チャンスは無くなってしまうらしい。ある意味厳しい。つねに体調をよくして、テンションをあげておかねばならないからだ。
日本だったら、躊躇したり「まあまあ」や「まあなんとか」となることも多そうだが、それではアメリカでは通用しないようだ。常にポジティブでないと仕事の機会は失われてしまうということらしい。
エスとノーの中間はないようだな。だからどんなことがあっても「Fine」か・・・。(最近スカッとした青空も見ませんがね〜)


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つまらないものでも、自分が情熱を賭けてうち込めばそれが生きがい。
「自分の中に毒を持て」岡本太郎著より。
タイトルは実に刺激的だが、サブタイトルにはそのテーマが表れていた。それは「あなたは“常識人間”を捨てられるか」という問いになっている。
すべてに自信があって生きている人などいないだろう。むしろ気が弱かったり不安を感じたりダメ人間だと思うこともあるだろう。むしろ私などはその方が多い。
そんなとき、岡本氏は自分はそういう弱くてダメな人間だと平気でストレートに認めるべきだと述べている。気が弱くても強くなろうとジタバタしないほうがいいようだ。あきらめるというより、気が弱いと思ってしまうことで、逆に自分なりに積極的になれるものが出てくるともいう。開き直りだろうか。
そして人から見て、つまらないものでも自分が情熱を賭けてうち込めば生きがいにもつながると述べている。これは何となく納得できる。情熱を向けるものが見出せれば、それは自己発見になる。
ダメなりに自由に制約を受けないで、つまり無条件で生きることが大事だったのだ。あまりにも常識に縛られていると楽しめない。失敗さえもまた楽しめるかどうか・・・
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いのちがけの「遊び」と甘えた「お遊び」とはまったく違う。
「自分の中に毒を持て」岡本太郎著より。
このフレーズを目にしたとき、先般75歳でエベレスト登頂に成功した登山家の三浦雄一郎さんのことを思い出してしまった。心臓病を克服しまた年齢を感じさせないチャレンジ精神は驚くばかり。
命をかけた登山に遊びという言葉を連想するのも失礼だとは思うが、このような偉業は人並み外れた好奇心や遊び心がなければ成し遂げられなかったろう。それはまったく型にはまらない自由さを感じさせる。
岡本太郎氏は自分のいのちを純粋に賭けるために芸術の道を選んだと語っている。氏の絵画や立体造形作品からは、いつもエネルギーを感じるが、文章の中にも同じく熱気がみなぎっている(ように感じる)。
「お遊び」という言葉からは実に軽薄さを感じるが、全生命を賭けた「遊び」となると感動さえ生まれるようだ。強制された労働は苦役だが、自由な「遊び」として創造的に取り組めば喜びにつながる、というようなことも氏は語っていた。また岡本氏らしい表現で、「人生、即、芸術」でもあるようだ。

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三日坊主になるという“計画性”をもったっていい。
「自分の中に毒を持て」岡本太郎著より。
誰でも何かを始める時に、たとえば語学の勉強、スポーツの練習、ダイエットのためのエクササイズ等は自分なりの目標に向かって、できるだけ長く継続したいと思う。
だからはじめから、1か月、半年、1年というような期間を設けたりしていない。ところが、気がつけば三日坊主に近いことが多い。そして、またダメだったかと後悔を繰り返す。
しかし、岡本氏はそんなことは一切気にすることはないと主張していた。むしろ気まぐれでもいいから惹かれるものは計画性など考えずに手を出すべきだという。その瞬間にすべてを賭けたかどうかを重視している。
たとえ挫折したところで「さまざまなバリエーションの運命を試すという計画を持つ方が面白い」とも述べている。だらだらと継続しているよりも、瞬間、瞬間が充実しているかということも、考えてみる価値がありそうだな。
氏の考えでは日記だって続かなくてもかまわないのだった。書こうと思ったことの方が大事らしい。確かにブログも始める前にあきらめたら、そこで得られるコミュニケーションもなかっただろう・・・な。


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ぼく自身は自分を始終落ちこませているんだ。
「自分の中に毒を持て」岡本太郎著より。
かつてテレビに出演していた頃の岡本氏の力強い発言やエネルギーがほとばしるような作品や著書からは自信たっぷりの人のように思えたものだった。
しかし、氏自身は自信があるとは思っていなかったようだ。むしろそんなものはどうでもいいものと考えていたのだ。ありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めていた。
ヘタに飾ろうとするとしたり他人と比較するから、逆に落ち込んでしまうのかもしれないな。岡本氏は自分を徹底的に追い詰め、“自信を持ちたいなどという卑しい考え”を持たないように突き放してきたという。
そして、わざと自分を落ち込ませている姿が他人の目からは自信に満ちているみたいに見えたのだろうと振り返る。
氏の強さはいつでも最低の条件に自分を突き落とすことから始まっていたようだ。精神的にマイナスの面をしょい込むことで、そこからはい上がってきたのだ。自ら逆境に身を置いて、それをエネルギーに変換して爆発していたようにされ思える。
もしかしたら、どんな失敗すらも、次に爆発するためのエネルギーになっていたのだろうか・・・



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うまくやろう、成功しよううとするから、逆にうまくいかない。
「自分の中に毒を持て」岡本太郎著より。
若い人たちに向けた言葉の中で「ただの生ぬるいサラリーマンになることは容易だ」と述べている。とは言え、最近しばしば、新卒で入社した社員の3分の1が3年以内に離職してしまうという統計の報道を聞く。生ぬるくサラリーマン生活を続けることさえ難しい時代なのだろうか。
一旦入社してみれば、そんなハズではなかったということのほうがほとんどではないだろうか。また、自分にはもっとあった仕事が簡単に見つかるはずだとでも思っているのだろうか。我慢する分岐点が低いのだろうか。
しかし、岡本氏は人生をうまくやろうと思えば、社会のベルトコンベアーに乗せられてしまうし、流されたまま生きることになるだろうとも述べている。氏からすれば、それは本当に生きているこことは違うようだ。どちらが正解かはその人にしかわからない。
岡本氏には凡人と違って特別な才能があったからこそ、自分らしい生き方ができたのだと思えるが、氏からすればやろうとしないからやれないのだということになる。
誰でもが人生をうまくやりたい、成功したいと思っていながらいくつもの失敗を繰り返している。でも、小さな取り返せるほどの失敗なら、それで生活できているならいいのかもしれない。
上を見ても下を見ても切りがないし。やはり凡人は妥協しながら生きてしまうのだろうか。うまくいかなくても、それが当り前だと思っている方が健全に生きられそうだ・・・な。