日本語の会話や文章には多くの「ぼかし表現」がまとわりついている・

「相鉄瓦版」2009.1,2月合併号より。
“こだわりの日本語”というコラムのなかにあったもの。この「ぼかし表現」とはどんなものかと言えば、無意識のうちにふだん使っているものだった。「みたいな」「〜的」などが含まれている。
ここにかなり極端な若者言葉の例があった。「わたし的には、なにげにパスタとか食べたいっていうか」。そしてこれを書いているのは文学博士の北原保雄氏だったが、さすがに言葉について敏感なためか若者の会話の状態も面白くとらえている。
この「ぼかし表現」は強い調子で相手に意見や情報を伝えることを避けていると北原氏は説明している。居酒屋で人数を聞かれたときなども、4,5人かな、などと答えたりします。また旅行は何日ぐらいですか。と聞かれると、2,3日ですなどと答えることもある。
こんな「ぼかし表現」がクセになってしまい、あらたまった席で「わたし的には〜」などと言ってしまうと恥をかくかも。まあ、私自身はこの言葉はもともと好きではありませんがね。
「等」や「〜と思います」というのもある程度はぼかしになってるようだが、これはかなり頻繁に使っているかな。いずれにしても円滑なコミュニケーションが取れればいいかな。


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「もし通知が届いたら、どうやって断ろうか」と考えていた一人・・・

産経新聞」2009.1.13付けより。
この日の投書欄を読んでいたら、目についたフレーズだった。もちろんこれは裁判員制度について書かれている投書だった。書いていたのは自営業の中年の女性だったが、かなり多くの人が同様な気持ちではないだろうか。
実際にこの召集令状のような通知を受け取って困っている人が多いに違いない。しかし、中には「裁判員の通知が届かず残念」と思っている人もいるようだ。
法律に関心がある人はやってみたいと思っているかもしれない。たまたま無作為な抽選に当たって、いろいろな事情でやりたくない人が断ると罰則があるというのも理不尽なことにも思えるが。
この投書の筆者はタイトルに「裁判員は希望者のみ対象に」とあった。そして、不特定多数のなかから選ぶのではなく、希望者のなかから選んではどうでしょう、と述べ知識の乏しい人よりんもスムースにことが運ぶだろうと結んでいた。
私はできれば、大学の法学部に学ぶ学生や法科大学院生の実習の場として必修としてやらせるのはどうかなとも思えた次第。教員になる場合の教育実習のようなものと考えればわかりやすいだろう。
一応法律を目指している人たちの方が一般人より関心が高いことだろう。もちろん学生に限らず一般公募(希望者)も受け付ければかなりの人数が集まりそうだし。そこからの選抜で十分ではないかなぁ・・・