どんな無茶なお世辞でも必ず少なくとも半分は本物らしく思える・・・

ドストエフスキー人間力齋藤孝著より。
罪と罰』の中には過剰に存在感をまき散らす端役が出てくるようだ。齋藤氏は、ドストエフスキーの得意技は、臭いを発する人物を描くことだと述べている。その中で、もっとも強烈な臭いを発しているのがスヴィドリガノフだという。どうしようもないほどアクが強い男らしい。
この男のセリフの一部に次のような個所があった。「・・・この世の中には正直ほど難しいものはないし、お世辞ほどやさしいものはない。・・・」実際はどうであろうか。私にはお世辞をうまく言うことのほうが、難しく思える。むしろ思ったことや感じたことをストレートに表情や口に出してしまうことのほうが簡単そうに思えるが。
歯の浮くようなお世辞でない程度に言えればいいが、それが難しい。それがさりげなくできるようであれば、かなりな大人である証拠だろうか・・・。でも、「いいですねぇ」と言っても、いったい何が、どういいのかを具体的に説明できなくては・・・ね。
かつての齋藤氏の友人は「親しき仲にもお世辞あり」という名言(迷言?)を吐いたそうだ。いずれにしても、お世辞もやはり練習次第ということかなぁ〜。

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いない時に噂になるような人間は、存在感がある・・・
ドストエフスキー人間力齋藤孝著より。
存在感ってなんだろう。身近な例では、学生時代にはクラスでほとんど目立たなくて印象に残っていないクラスメートがいたものだが、その後社会人になって久しぶりに会ってみると実に存在感を感じる人がいる。
“えっ、あいつが立派な経営者になっている!”と驚かされることもある。そんな時にその男のことが逆に印象に残って存在感を感じることもある。また逆に学生時代は運動も勉強もよく出来て印象に残っていたやつが、その後会ってみるとまるで目立たなくなっている者もいたりする。
印象はいいにつけ悪いにつけ残るものだが、その時点での存在感とも言えそうだ。何も印象に残せないというのもつまらない。齋藤氏はドストエフスキーな人々は、いなくなった時に噂したくなるような人たちばかりだと述べている。強烈な個性の持ち主ということだろう。
もし、営業マンだったらできるだけいいコミュニケーションを続けて、その存在感を残せたほうが有利であろう。顧客に何らかの需要が発生した時に、すぐに思い出してもらえる人物ほど価値がありそうに思える。実際の生活では、個性的とかユニークだという言葉は、できればいい意味で使われたいものだ・・・な。(難しいことだが)