日本語の「感性」に相当する英単語がない・・・

「ビジネス脳を磨く」小阪祐司著より。
しばしば何気なく「感性」という言葉を使っていることがある。ところが、これを英語で表現しようとするとき適切な言葉は見つからないらしい。エモーションやセンシティビティーやデザインでもないようだ。で、国際会議では「KANSEI」と表記されているという。
小阪さんの説明によれば、感性とは人の高次情報処理機能という意味だというが、もう少しわかりやすく言えば、大量に降ってくる情報を複雑に素早く処理できる機能らしい。
たとえば、同じ人を見て「ステキ」「かわいい」と感じる人もいるし、別に何とも感じない人もいるだろうが、それは感性の違いということになるのだろう。またある商品を見て「いいなあ」と思ったり、ある店で過ごして「なごむ」というのも高次情報処理ということになる。
現代は感性社会と言われているが、ビジネスを考えればそこには主に3つの特徴があった。
1、「これをやれば必ずこうなる」というきまりきった解答がないということ。つまり他店で売れている商品を仕入れて並べても同じようには売れるとは限らない、というようなことだった。
2、「今日の解は明日の解ではないこと」社会の変化が早く、商品寿命がどんどん短くなっているからだった。
3、「A社の解はB社の解ではない」重要なのは真似ではなくて「差違」や「らしさ」のほうだった。
感性を自分なりに理解して生かしていくことも、今後仕事を実りあるものにするためには必要なのかもしれない・・・な。


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花見と「キャッツ」の共通点。
「ビジネス脳を磨く」小阪祐司著より。
このまったく異質なものの一体どこに共通点があるのだろうか、ちょっと気になった次第。花見を楽しむのは日本人だけだそうだ。花は当然桜になるが毎年同じ時期に咲いて珍しくもない。なのになぜその木の下で宴を開くのだろう。
桜は飽きたから別の木の下で、というわけにはいかない。桜の樹木または花の力だろうか。日本人独特の感性で花見を毎年楽しんでいる。たとえ実際に花見をしなくても花びらがいっせいに散る木の下を通るだけでも気持ちがいいもの。
花見で少しづつ変わっているのはメンバーや飲食物ではないだろうか。
劇団四季の「キャッツ」も何年にもわたって同じようなミュージカルを繰り返している(らしい)。実際に見たわけではないが。長年同じ舞台を繰り返しても、リピーターとなるお客さんが大勢いるということだ。
花見と同じように毎年繰り返しても、演出や衣装、舞台装置が常に変わっているようだ。だから、熱心なファンはどこがどう違っているのかを楽しみに来ているのだろう。筆者の奥さんは10年ぶりに「キャッツ」を観たようだが「すごくよかった!でも、前とぜんぜん違う」という感想を漏らしたそうだ。
そういえば、ディズニーリゾートもリピーターで成り立っているのだろう。中身のアトラクションやパレードは常に新しいものが開発されているようだ。だから毎年行くたびに新鮮さが味わえるのだろう。


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ひょっとしたら昨今の小学生の作文や絵は親同士の競い合いの場となっているのではないか・・・
「メトロミニッツ」2008.7.20号より。
自分が小学生の頃の夏休みは実に長く感じられたものだったが、今の子どもたちにとってはどうなのだろう。習いごとや塾に通っているのだろうか。
藤原新也氏(写真家、作家)のエッセイのなかにあったワンフレーズだった。子どもたちは長い休みと同時にいろいろな宿題も課されていることだろう。
自由研究、図画工作、ポスター、読書感想文なども入っているものだ。それらはしばしば親の手がかなり手伝ってしあげることもある。実際うちでも子どもらが小学生のころは手伝わないと始めなかったものだった。
音楽や算数などは妻の叱咤激励でやっていたようだ。私自身は子どもの頃は図工が好きだったので、手伝うこともそれほど苦ではなかったな。しかし、それも限度ものだろう。
すべて親が仕上げたりしたらタイトルに挙げたように親同士の競い合いになってしまう。過剰な手伝いは子どもにとっては決していい結果を残さないだろうな。何ごともほどほどかな。


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ジーンズというのは、どこかぼくたちの人生に似ている。
R25」2008.7.17号より。
最後のページにある石田衣良のエッセイのなかで目にしたワンフレーズだった。いかにも作家らしい表現にも思える。ジーンズは長くはいていると色褪せて、自分だけのものになって味が出てきたりもする。
こんな感覚はスーツのスラックスでは味わえないだろう。若い頃にはジーンズもはいてはいたが、最近はしめつけられるのがいやなのでほどんど身につけたことはない。とくに腹が出ているとジーンズもはきにくいもの。
ジーンズがいいのは丈夫であるここととコンクリートでも草の上でも平気でそのまま座れることだろう。また若い頃油絵を描いていた頃にも絵具がついてもへっちゃらだったもの。まあ作業着だったのかもしれない。
もっとも、人によっては作業着なんてとんでもない、高級品はファッションだと考える人もいるだろう。わざわざ擦り切れたようなものも流行っていたり。石田氏はジーンズ大好き人間らしい。直木賞授賞式パーティーにもブラックジーンズをはいていたという。
思い出せばジーンズをはいていた頃は、胴周りが今より10センチ以上細かったな。まあ、ジーンズははかなくてもそこそこ味のある人生を過ごせたらいいな〜とは思ってますがね。


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「書」はメッセージを伝えるための武器。
R25」2008.7.17付けより。
“しごとの手帖”というコーナーで書道家武田双雲が言っていること。売れっ子の書道家だ。マスコミへの露出度も高い。33歳という若さでもう頂点を極めてしまったような感じさえある。
「書」が武器とは実に力強い言葉だ。しかも相手の人生が変わるくらい強いメッセージを伝えたいともいう。そして現状を把握することで、自分にしかできない自分色の表現が生まれるというのも彼らしい。
彼は常に強烈な好奇心で人と接して世の中をみているようだ。それにしてもこれほど若くて人気のある書道家は過去にいただろうか。
映画の題字を書くときには監督の世界観や伝えたいこと、観客が何を欲しているかなどを徹底的にスタッフと話し合うという。まさにマーケティングの世界でもあるようだ。
「書」は彼にとってはあくまで武器に過ぎなかった。彼にとって仕事は「書」を通じて人の人生をプラスに変えていくことだと考えている。こんなことをはっきり言えるのは、3歳からずっと書道を続けてきた自信だとも思える。(現在33歳)
母親の書道家という仕事を客観的にみられたのは社会人になってからだと述べている。独立してからは8年だった。若くても同じことを30年間続けているからこそ自信をもって言える言葉なのだろう・・・な。