「納豆の快楽」という本・・・

「食の堕落と日本人」小泉武夫著より。
納豆ダイエットの捏造番組事件が起こる数年前に書かれたのが同じ筆者による「納豆の快楽」という本だった。実はこの本はまだ読んだわけではない。ただこのタイトルが発酵の専門家である筆者らしいと思った次第。
昨日(2/23)の朝日朝刊には、「納豆売り上げ、前月1.7倍」という見出しがあった。これは、番組をきっかけに納豆消費に目覚め、そのまま習慣になった人も多いということらしい。ダイエット効果の期待よりも美味しいから食べ続けているのかもしれない。
ところで、かつて赤ワインブームというのがあった。それはブドウの皮の中にポリフェノールという特殊な物質があって、それが血栓を溶かす働きがあるとマスコミで宣伝されたからだった。
赤ワインを飲んでいれば心臓発作も防げるだろうというふうに思われたのだ。しかし、そんな赤ワインブームの前から日本は世界一の長寿国でもあった。筆者によれば、納豆に含まれるナットウキナーゼという成分のほうが赤ワインのポリフェノールよりも血栓を溶かす力が何十倍も強いという。
ダイエットとは関係ないかもしれないが、もし健康のためなら高い赤ワインでなくて安い納豆でも十分だということになる。私は赤ワインも納豆も両方とも嫌いなほうではないが。

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「切れる」という現象。
「食の堕落と日本人」小泉武夫著より。
「彼は切れ者だ」という表現ならば、ほとんどイコールで“頭がいい、仕事ができる”という意味だろう。しかし、単に「彼は切れる人だ」となると別の意味合いを持ってくる。さらに「切れやすい人」となるともっと困る状態だろう。
そうなると、それまで抑えていた感情が突然プッツリと切れて、暴力的な起こしてしますことを意味している。そのように切れてしまうのは、社会経験の少ない若者の方が多いようだが、気の短い大人もたまに見かける。事件はかっとした勢いで起こるものも多い。
ちょっと叱っただけでもすぐに切れてしまう小中学生もいる。そして、身近にある刃ものやモノを凶器として使ったりしてしまう。こんな事件の記事はしばしば新聞でも目にする。
筆者によれば、そういう子供はふだんからしっかりとした食事をしない子である割合が高いという。さらに、勉強などの集中力にも影響しているようだ。
子供の頃の偏食によって性格や気質にまで影響してしまうか。うちの子供らの場合を振り返っても何となく納得できるところもあるな〜〜

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それぞれの“日常”を少しだけ上質にしようとやって来て、・・・
「メトロミニッツ」2007.2.20号より。
ある都内の居酒屋の紹介記事の中にあったフレーズ。その店の得意料理はさまざまなメニューがある中で、意外にありふれた「特製煮込み鍋」(380円)だった。人気の一品らしい。
ふだん私たちは、意識して少しだけ上質な時間を過ごそうと思ったりするだろうか。仕事がそれなりに充実していたり、家庭生活が楽しければそれで満足しているのではないだろうか。
一日のなかでのちょっとしたアクセントになるようなひとときがあるとウレシイかもしれない。仕事のあとで(アフターファイブ)気の合う仲間と酒を酌み交わすことが、アクセントだという人も多いだろう。
また特別なお金を使わなくても、どこかでお気に入りの本を読んだり音楽を聴いたり、時には画廊めぐりなどをしても上質な時間は過ごせそうだ。散歩や運動で体を動かし汗を流したり趣味に没頭できるなら気分もリフレッシュできる。
最近は一日の区切りはブログやネットサーフィンだという人も増えているでしょうね。などと思いながらふと、自分を振り返ってしまった。ささやかな日記(ブログ)でも、読んでくださる人がいることが確認できた時、それは自分にとって上質な時間に変化するような気もしてきた・・・な。(書いてある内容は別として)

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贅沢ということは、お金をたくさん遣ったということじゃなくて、・・・
「すべての愛について」浅田次郎著より。
この本は浅田氏と各界の人たちとの対談集だった。上記のフレーズは北方謙三氏との会話のなかに出てきたもの。このあとには「・・・ある心の豊かさみたいなものを獲得したということなんですよね。」と続いていた。
それに対して、北方氏は、かつて「三国志」を執筆中は他の出版社からの仕事はしなかったが、終わったとたんに原稿依頼が集中してしまったと語っている。結局そんな状態のなかでは、贅沢など感じていられないという。
そして、この二人の人気作家にとっては一番贅沢なことは、自由な時間を獲得できたときだという。人気作家ゆえに収入は多くても、奪われる時間も大きいということか。まあ、金とヒマの両方があれば一番いいのだろうが、もしそんな機会があったとしても若さやパワーが失われていたりして。
北方氏はたとえ、お金をたくさん遣ったとしても、満足感よりも浪費をしたって思ってしまうらしい。やはり安心して一人で自由な時間にひたれるときは一番の贅沢のようだ。(しかし有名人ゆえにそれも難しそうだが)
時間のことを考えれば、自分では贅沢をした意識はなくても、若い頃を振り返れば無駄な時間を過ごしたことが贅沢だったかも、と痛感してしまう。(今でもだらだらと過ごしてはいるか・・・)

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浪費とも言える贅沢をすることに決めている。
「メトロミニッツ」2007.2.20号より。
ここではまた別の視点から贅沢ということをとらえていた。藤原新也氏(作家)は「毎年の年の始めに一回、浪費とも言える贅沢をすることに決めている」という。
しかも、それはフグ、ホッケ、チャンポンなどをその年ごとに食べることだった。なんで、それが贅沢なのか?と思ってしまう。
しかし、彼の場合一杯のチャンポンを食べるためにわざわざ本場と言われる現地、長崎まで行くのだ。つまり、食べものに比べて交通費、宿泊代などのほうが数万円もかかる。チャンポン一杯はせいぜい800円程度だ。バカバカしいと言ってしまえばそれまでだが。
いくら本場とはいえ、食べものが安くて旅費、宿泊代が高いほど贅沢感が増すような気もしてくる。他の目的はなくただ決まったものを食べるためだけに行くというのは実に贅沢だ。浪費するのはお金だけではなく時間もそうだ。地元や勤務先の近くで食べるなら、数十分で済んでしまうものを、場合によっては往復で40時間以上もかけることになる。そのほか出発までの準備も入れたらさらに費やす時間は増えるだろう。
たった一つのもとを目的とするために生じる時間やお金の浪費は実に贅沢なものと気づかされる。効率が悪いことは贅沢であるにかも。いつもは急行電車に乗っているのに、同じ距離を行くのに各駅停車にゆったり乗っているだけでも・・・かな。