おそらく、感動した体験の数の分だけ、人間の感受性はより鋭く豊かに

「読めば読むほど」永六輔・千絵・麻里著より。
この本は父と2人の娘によって書かれている。読書は楽しいということを子どもたちに伝えるために書かれている。そのなかで、次女の麻里さんが述べている部分にあったフレーズ。
最近の子どもたちは生れたときから何でもあるので、一見幸せそうでもある。しかし、ある意味それは感動することも少なく不幸かもしれないと彼女は思っている。たしかに、ものがなければそれを手にしたときの喜びは大きいはず。
ものがなければ、場合によっては自分で作ったりもする。できばえとは別に感動も得られるもの。すると、それを人に伝えたいとも思うだろう。感動を共有したいと思うのは普通のことだ。
どんな単純なものでも手作りは楽しいもの。料理、工作、作文、手芸、絵画・・・手作りしていると時間を忘れてしまう。読書も読むほど感動を体験できる。子供のころ、新しい物語の世界に入っていくときワクワクしたものだった。
それは年齢には関係ないかもしれない。そう考えると何でもすぐに苦労もなく手に入る場合は感動は薄いに違いない。ものが豊かになり便利になるにつれて、知らず知らずのうちに、感動する機会を失ってきてしまったようにも思える。
幅広い読書、手作りする機会をもつ、身近なものの中からの発見、オリジナルな旅行、映画・芸術鑑賞、スポーツの体験や観戦・・・さまざまな体験は豊かな感受性を育ててくれそうだ。
身近なところでは、手書きの手紙やハガキがあるかもしれない。直筆のものは受け取るものうれしいが、自分の言葉で表現するのも楽しいものだ。(ただし送る人がいれば・・・)