「くりかえし」見たり、聴いたり、読んだりしても飽きないものが本当

スラムダンクな友情論」斉藤孝著より。
つまりそれは何かといえば、筆者は「自分にとっての古典」だという。今ある「古典」は長い年月に耐えて新しい意味や感動を生み出してきたものだ。
そこで、偶然にも先日読んだ「名画読本」の中で赤瀬川原平氏も似たようなことを述べていたことを思い出した。彼は「名画というのはいつまで見ても飽きない絵のことだ。」と言っていた。
自分にとって気に入った本は何度でも読み返したくなる。そしてそのたびに新しい発見もある。同じ本も学生時代と社会人になってからとでは、異なる箇所が気になったりもする。
斉藤氏は同じマンガを何回もくりかえして読むことがあるという。しかも、読んでいる間にセリフまで覚えてしまい、ときどき頭の中に浮かんでくるという。ここまで、読み返すというのもすごいことだ。
また、たまたま今日読んでいた「牛乳の作法」(宮沢章夫著・劇作家)というエッセイのなかに“私の古典”というトピックがあった。その中で宮沢氏は「まっさきにに浮かんだ“私の古典”といえばマルクスの『資本論』を措いてない。」と述べている。
新しい新鮮な出会いは確かに大切なことだろうが、一方で繰り返しても飽きない自分の古典を持ていることも人間の深みと言う点では大切なことなのだ。はたして自分にとっての古典といえるものがあるだろうか・・・。
同じ作家の本を何冊も読んでいると似たような表現に出会う。そういえばこの斉藤氏の本は既に10冊以上は読んでいるが、“技化”という言葉がよく出てきてたな。同じ作家の本を読み続けることでも何か身につくことはありそうだ・・・な。