私たちの毎日は、ほとんど「選ぶ」ことの連続によって成り立っている

私たちの毎日は、ほとんど「選ぶ」ことの連続によって成り立っている。
「選ぶ力」五木寛之著より。
こんなことは、まったく意識していないが、朝起きた時からすべてが選択の連続だと気づかされる。着るもの食べるもの、その量など無意識でやっていることがほとんどだ。
選ぶとは、意思決定することとイコールだろう。だから、単にAかBかだけではなく、無数の候補から決めなければならない時もある。自分が安全で少しでも快適な通勤をしたいと思えば、そのためにもいろいろな選択の必要が出てくる。
もし、それを面倒だと思っていたら、精神的にも参ってしまうだろう。むしろ選ぶことが楽しいとなれば、気持ちも軽くなるものだ。
先日はバスの中で、話をしている人がいて、嫌でも耳に入ってくるのが迷惑で苦痛でもあった。そんな時には耳栓でもあればと思った次第だ。聞かないようにできる選択もあるべきだと痛感したものだ。周囲の人も迷惑だったはずだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人にしても本にしても、こっちが選ぶようでいて、本当は向こうから選ばれているのではないか。
「選ぶ力」五木寛之著より。
今は読みたい本があれば、自分から調べて手にすることができる。また流行っている本があれば、それも容易に読むこともできる。本から選ばれるとは、どういうことだろうかと思った次第だ。
人の場合は、自分が選んだからといって、向こうも選んでくれるわけではない。友人関係なら、自分が気に入った人とだけつき合えばいいのだろうが、仕事ではそれが難しい。
仕事と思って割り切って、チームのなかでやっていくしかないのだろう。
また配偶者を選ぶというのも、その後の人生に大きな影響を与えるものだろう。その場合、まったく一方通行はあり得ない。お互いにある程度の妥協もあるものだ。選ぶと同時に選ばれているとうことも振り返る必要があるのだろう。
相手を一度決定したら、なんとか折り合いをつけてやっていくしかない。その中でお互いの価値観を見つけ出していくのがいいのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
考えに考え抜いて、それでも結論がでないような状況はままあることだ。
「選ぶ力」五木寛之著より。
すでに80歳をいくつか過ぎた大作家がこういうのだから、それは誰にもあることだ。選ぶということで思い出すのは、学生時代の試験の問題だった。そこには選択せよという設問が必ずある。
あまり勉強していなければ、どちらとも取れそうな選択肢ばかりのようにも見えたものだ。それでもどれかを選ばなければならない時は、鉛筆や消しゴムを転がすということもあったかもしれない。
筆者の五木氏は大学も中退せざるを得なかったようだが、氏の作家仲間には授業料も払えずにそうなった人も多いようだ。ちゃんと大学を卒業できた人には、堅気のコースを歩んだ人が多いらしいが、五木氏はそれができなかったので、物を書いて生きる道を選ぶしかなかったという。
その後の努力と才能と素晴らしい出会いがあったからこそ、作家として成功したのだろう。しかし、競馬などの勝負ごとには向いていなかったと振り返っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間は他人が愛用しているものに興味をそそられるものだ。
「選ぶ力」五木寛之著より。
宝くじ売り場の前を通ると、ここで○億円が出ました!などということが書かれているのをしばしば目にする。それはセールスのためのアピールでもあるだろう。
似たようなことが、本にも言える。○○賞受賞作品というのも、販売の目的には大きい宣伝になる。それまでまったく無名の筆者も一夜にして知名度が上がる。
それは専門家が評価したというお墨付きでもあるから、安心して買うこともできる。映画も同様で、アカデミー賞受賞作品ともなれば、主役も作品も監督も知名度は一気に上がる。それも大きな宣伝効果だ。多くの人がそれなりに評価したものであれば、レストランでも車でもなんでも、興味を持たれるのは当然なのだろうな。