「修行」とは「無茶ぶり」、そして「無茶ぶり」とは「修行」なのです

「修行」とは「無茶ぶり」、そして「無茶ぶり」とは「修行」なのです。
「落語力」立川談慶著より。
これは筆者自身の経験から言える言葉だった。この本のサブタイトルには“この一冊で仕事術が面白いほど身につく”とあった。なるほど、談志流の厳しい修行に耐えられれば仕事もできるようになるだろうとも思えた次第。
談志師匠はとにかく弟子に対して厳しい注文をどんどん出したそうだ。それは弟子を鍛えるためでもあった。師匠に喜んでもらえるようにすれば、いろいろなことに対して対応力が磨かれるということでもあったのだ。
芸人はよくアドリブ力や当意即妙力があることが有能とされるが、一般の会社員も同様のことが言えるだろう。それができる社員は有能ということになる。とくに新入社員にはいろいろなことが要求されるがそれは修行期間でもあった。
ある意味、「無茶ぶり」は可能性のある者に向けられた試練だとも述べられていた。確かに見込みのないもの、期待できない人間なら適当にあしらわれるだろう。

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「無茶ぶり」で自分の殻を破る、自分の限界を超える。
「落語力」立川談慶著より。
(前日のつづき)
始めの部分には「ズバリ言うと、人間は無茶ぶりでしか成長できない動物なのだと思います」とあった。これはある意味限界までいろいろと試すことで可能性も出てくるという意味にも考えらえる。
当たり前のことだけやっていたのでは、成長もないのだ。筋肉も負荷をかけなければ、その繊維は太くはならないのと同じだろう。
昔長嶋監督は大学時代に千本ノックで鍛えられたという伝説もある。そして、自身が監督時代にも選手を千本ノックで鍛えたともいわれている。こんなけた違いの数字は「無茶ぶり」と同じことだろう。
会社員もノルマを与えられるが、時にはそれ以上の数字を自分への無茶ぶりと考えて目標を達成すれば自信にもつながる。人と同じことをやっていても面白くもないものだ。

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あなたの成長を間違いなく約束する「無茶ぶり」。
「落語力」立川談慶著より。
(再度前日のつづき)
この筆者は「無茶ぶり」というネタで、自身の経験からいろいろなことが言えると思ったらしい。そこで、無茶ぶりを制御可能にする五つのポイントについて述べていた。
1、 楽しい未来像を描く。・・・無茶ぶりの向こう側にいる自分の未来の姿が笑っているかどうか、それを考える必要があるらしい。
笑いは成功事例より、失敗例のほうがオイシイという。なるほどそれは言えるだろう。
2、 数値化してみる。・・・立川流では二つ目になるには、落語を五十席覚え、真打になるには百席という基準があるのだ。長嶋監督の千本ノックも数値化されている。実際その数字を達成できれば、充実感はあるものだろう。
3、 細分化してみる。・・・振られた数値以上の数値をクリアするには、地道に日々コツコツしかなかった。筆者も二つ目に昇進するために、受験勉強時代のような日々を過ごしたという。負けず嫌いに火をつけることも必要だった。
4、 最悪の事態から想定してみる。・・・筆者の経験からは、師匠からのツッコミをいかにして処理するかに明け暮れたという。
5、 実践、そして途中検証。・・・これは会社でもかつてよく言われた、「PLAN→DO→SEE」というやつだった。計画、実践、検証だった。ここまでくると落語はまったく離れてしまっているようだ。


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「ネット上でのやり取り」も「接客」だという考え・・・
「落語力」立川談慶著より。
まさに、これはいつも考えていることでもあった。とくに客商売を経験したから感じることかもしれないが、ネットで知り合いになることはそうそう簡単ではない。
まず、一般的には自己紹介が必要だろう。それにいかに相手に不安を与えないかを考える必要があるだろう。別に交流を望まないなら関係ないだろうが、それでは面白くもない。
やはり交流があるほうが自分も成長すると思われる。相手から教えてもらえることもある。それならやはり最低限の礼儀や挨拶は必要だろう。
落語家もサラリーマンも接客からスタートするが、まずはマナーと礼儀が大事なことは当然だ。またいかに長く継続交流ができるかを考え、期待されるコンテンツを提示することも心掛けたいものだ。