受身ではない攻撃的読書。

「言葉を育てる」米原万理対談集より。
かなりインパクトのある言葉だった。俳優の児玉清さんとの対談のときに語っていた。かつてロシア語学校に行っていたとき、日露の国語の授業の違いに愕然としたという。
日本の場合「よく読めましたね」でおしまいだが、プラハでは「よく読めました。では、今読んだところをかいつまんで話しなさい」とやられたそうだ。
つまり読みながらしっかりと要点をつかんでいなければならないということだった。それを毎回やられると、読みながら中身を捕まえるのが習性になったという。これが上記のフレーズにあげたことだった。
読みながら、内容を記憶するというのはかなりハードな勉強ともいえる。


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自分に対してある種の説得材料みたいなものって必要・・・
「言葉を育てる」米原万理対談集より。
対談の相手はノンフィクション作家の西木正明さんで氏が語った言葉だった。米原さんの立場では、通訳はすべて話し手の言葉だけを訳すので、自分と違う考えも訳さねばならないからそれも辛いことだという。苦しいと思うことさえあったらしい。
また西木さんは、芸能週刊誌の編集者をしているとき、つまらないことまで聞かなければならないのが辛かったようだ。しかし、ある時自分の後ろには百万人の読者がいて、それは読者が聞いているんだと思って自分を無理やり納得させたという。
お二人は、自分が聞くのではなく代表して聞いているのだと思うことで自分を納得できたという。ある意味いろいろなことは、それなりに大義名分があればやれるということでもあろうな。


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集中していると、ある以上の能力も出る・・・
「言葉を育てる」米原万理対談集より。
対談の相手はイタリア語の翻訳家、エッセイストの田丸公美子さんだった。まず、田丸さんは逐次通訳と同時通訳の違いについて述べていた。逐次通訳は原発言を聞いてメモをとりながら訳すことだった。ここで大事なのは記憶力と再現力のようだ。同時通訳は全然間を空けないで、隔離されたブースに入って、耳に入れて同時に訳すというものだった。
米原さんは同時の方が好きだという。それは、記憶の負担がないからだった。同時はかなりいいかげんでも許されるが、逐次だとダメなのがばれてしまうという。こんなことはそれを職業としていなければ分からないことだろう。
同時通訳は先が読めなくても、ないかを休まずに言い続けなければならないのが辛いという。ある言葉には複数の意味があるので、脳内フロッピーからたくさんある訳語を呼び出して前後の文脈から一番ふさわしい言葉を瞬時に選択決定しなければならないようだ。
当然ながら、そんな時の脳は高速回転を続けているから疲れるのだ。また同時に集中していると、時どき自分でもびっくりするような名訳が出てくることもあるらしい。それが上記フレーズにあげたことだった。それはそんなことを経験していない人には実感としてはわからないだろう。