自分ではなく、相手のことを言う。

「憂鬱でなければ、仕事じゃない」見城徹藤田晋著より。
これだけだと何のことかわからないが、次のように続いていた。「これが難攻不落の相手とのコミュニケーションを取る際の基本である」。
見城さんのところには、毎日たくさんの手紙やメールがくるが、心を動かすものはほとんどないという。
かつて、五木寛之さんと仕事をしたいと思って、作品が発表されるたびに手紙を書いたという。そして返事をもらえたのが、17通目だったという。しかも内容は相手の刺激になるようなことを書かなければならなかったのだ。
その後25通目の手紙でようやく会っていただけたそうだ。こんなことは誰にでもできることではないだろう。だからこそその熱意が伝わったのだ。「幻冬舎」という社名も五木さんが名付け親だという。


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善意は思わぬ形で実を結ぶ。
「憂鬱でなければ、仕事じゃない」見城徹藤田晋著より。
見城氏の知り合いの方が、地方に左遷されるとそれまで甘い言葉をかけたり、もてなしたりしていた人たちは、何も言ってこなくなってしまったそうだ。人間は現金なものだと思ったらしい。
しかし、見城氏はその人のことを好きだったということもあり、スケジュールの合間を縫って、年に4回彼のところに通い続けたという。それは意地だともいう。
すると、そんな行為は結果的に仕事面でとても有益になったという。それがタイトルにあげたことだった。
具体的には地方局の昼の情報番組で、見城氏の会社の本を紹介してくれたのだった。当然ながら本の売り上げに貢献したようだ。
そして、見城氏が角川書店を退社し、幻冬舎を立ち上げた時は、大変だったという。百人が百人ともこけると考えたそうだ。四面楚歌だったらしい。
そっぽを向いた書き手も多かったという。しかし、快く引き受けてくれる人もいたのだ。そして6人の作家から幻冬舎はスタートできたのだった。
見城氏はこの6名の作家の恩義は、生涯忘れることはないという。誰も苦境にいる時に、手を差し伸べてくれた人は何より大切にするものだと結んでいる。

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慣例に従っていたり、常識にとらわれていたりしたら、新しいことは起こせない。
「憂鬱でなければ、仕事じゃない」見城徹藤田晋著より。
これは藤田氏の言葉だった。この考えは今でも思っているそうだ。氏は26歳の時に当時最年少で会社を上場させている。誰もやってないことだが、猛烈に働いた結果だった。
上場時には大反対を受け、その後も世間からは強い逆風が吹いたという。しかし、がむしゃらに前に突き進んだようだ。
今でも意識的に組織をかき乱すことをしているという。それは刺激を与えて活性化のためだ。またこうも考えていた。年功序列の安心感の中で、ぬくぬくと過ごしていては、本来の実力は発揮されない、と。
顰蹙を買うのを恐れて、少しずつ変化させていたら、他者の出遅れてしまうという。それだけ変化のスピードが速まっているということだろう。最後に強い言葉があった。「変革を恐れない者だけが、先に行ける。とどまったままでは未来は無い」と。