技術で彩色されたキャンバスには、心の通った絵は描けない・・・

「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。
この本のサブタイトルは次のようになっていた。“生マジメ人間じゃ翔べない”、と。たんに学校の成績がいいだけでは、面白く生きられるわけでもなかった。
知識があったとしても知恵がない人も多いらしい。学校でのテストが解けるという技術におぼれて、それを才能や能力と誤解している人も多いようだ。
人生を白いキャンバスにたとえているところが面白い。しかし、そこでは小手先の技術では人の心は動かせないという。ましてや人間関係など築けないものだ。
むしろ大事なのは人の心の方だったのだ。たとえば、思いやりなどはその代表だろう。自分だけよければそれでいいと思っていたら周囲のことなど目に入らないに違いないな。

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金は使うから金であって、使えない金は金ではない。
「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。
たとえば、宝くじに高額の賞金があたったとしたら、藤本氏はそれを貯金してしまおうと考えた瞬間に、金はしんでしまうという。やはり何かに使わなければ意味がないのだろう。
それ以上にお金は増えることもない。お金は使えるからこそ意味があるということは理屈ではわかる。小銭をためて喜んでいるうちはむしろ金に使われている人生だともいう。
収入の何分の一かで楽しんでいくというのが本来の使い方らしい。賭け事でも損をしたり得をしたりして、生き物のように変化していくのが金だと体で覚えることも大事なようだ。
投資も同じことだろう。生活ができる範囲内で、経済の知識を実感出来ればいいのかもしれない。金を貯めて財産を残しても楽しく使えなければもったいない。
金があっても、我慢して使わないというのであれば、それはまた貧乏な人生となってしまうようだ。たしかに、特に裕福ではなくても、豊かに楽しく暮らしているような人もいるな。

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知識は、好奇心が旺盛で求めていく態度がなければ得られない。
「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。
たとえばカルチャースクール、語学教室、勉強会などというものがあるが、そこに参加したからといって、必ずしも知識となるとは限らないようだ。
人がやっているからといって、それが自分にあっているとは限らない。やはり何ごともハングリー精神がなければ得るものも中途半端なものだろう。
何かに本気で取り組んでいるかどうかが、ポイントのようだ。藤本氏はその人の生き方の差が、知識の質とかかわっているという。
氏は知識という言葉の中には2つの意味があるという。「知」には物事に対する感受性、感性、「識」には論理的に知るという意味だと語っていた。はたして今どんな知識を蓄えているだろうか。
単に知っているということより、むしろそれを自分の生き方にどう反映させるかが大事なことらしい。知っていても使えなければ、お金を貯め込んでいるだけと似ているな。

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人気があるといわれる人を見ていると、意外に地味なことが多い。
「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。
これは藤本氏の感想だった。そういう人は何かコツコツと頑張っている人だという。さらにおもしろいたとえがあった。それはコマだった。
どんなに立派なコマでも、軸が弱かったり、ズレていると回らないという。そして、人間もコマにたとえれば、しっかりした軸がなければ回らないのではないかと語る。
つまりそれは、本心から好きで突き詰めて考えられるものを持つことが大切だという意味だった。藤本氏は様々なことで活躍していたが、氏ににとっての軸は物書きだったのだ。
人気ということについても触れていた。それは人の気持ちと書くから、どこでうつろうもやらわからないと言っていた。本物の芸を身につけてないうちは空人気だったのだ。

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厳しくありながらも、どこかの顔には、遊びを残しておくべきだ・・・
「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。
まず優しさだけでは、人間の魅力は伝えられないという。そして見かけの人気にまどわされない厳しさを自分の中に持つことが必要らしい。
懸命であったり厳しいだけでは人はついてこないものだ。そこにはある程度の遊びも必要だったのだ。能力があっても固いだけの上司は人気がないものだ。
真面目だが仕事一筋な人が人気がないのは、心に余裕がないからだろう。自分さえ仕事をそれなりにこなしていればいいわけでもなかった。そんな人には面白味を感じないものだ。
むしろ魅力的な人は、意外にポカをやったり冗談を言ったりや意味のないことに時間を費やしたりしているものだ。そんな人こそ人の心を動かすのだろうな。

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感動的なプレゼントと、迷惑なプレゼントは紙一重
「お金のかからない222の大人のプレゼント」中谷彰宏著より。
確かにこれは経験としても感じるものだ。ちょうどこんなもの欲しいと思っていた時にそれをもらえると感動することがあった。逆にもらっても迷惑を感じるものもあった。当然ながら嬉しくもなんともない。
それは迷惑な人からもらうというのもある。なんだか下心が見えたりするものや単なる形式的なものは受け取りたくないものだ。
筆者は、プレゼントは誰からもらうかといくことを、超越したところにあると語っていた。プレゼントによっては奇跡も起こせるらしい。
困っているときに、ちょっとしたモノを手渡されて助かったというのもプレゼントだろう。それは別に金額や形などはまったく関係ないもののことが多い。実用的なモノの場合がほとんどではないだろうか。
その一例として、バンドエイドをあげていた。紙で手を傷つけてしまうこともあるが、そんな時にある一枚はありがたいものだ。
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誕生日を覚えててあげる。
「お金のかからない222の大人のプレゼント」中谷彰宏著より。
意外な盲点かもしれないが、実際のプレゼンントよりも嬉しく感じる時がある。まったく予期しないときに、メールで誕生日のメッセージがあると嬉しかったりする。
そんな目に見えないことばでもプレゼントにはなりうるのだった。へ〜こんなものまで入るのかと思うようなものがあった。お姫さまだっこ。飛びきりの笑顔。見えなくなるまでお見送り。話をきいてあげる。これには自慢話やグチも入るらしい。
私はこれをやってみたいと思ったのが、「本の中の気に入ったことば」というものだった。そんなことばは、その本を読んだ人しかしらないものだろう。
たとえ、人が言った言葉でもお気に入りがあれば、それを教えてあげれば得した気分になるかもしれない。また先ほど触れたバンドエイドもその絵柄がその人のお気に入りや、かわいいものだったりすればなお効果的だろう。

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