ブランドが「好感度」のカタマリ・・・

「好感度UPの法則」齋藤孝著より。
日本ではブランド信仰が強いらしい。たとえば、C.ディオールルイ・ヴィトンなどの有名ブランドを持っているLVMHグループの売上比率では、アメリカが二割強、フランスは一割以下なのに対して日本は三割以上を占めているという。
ある意味、日本は海外ブランドのいいカモになっているとも言えそうだ。日本人がこれほどブランドを好むのは、それが好感度のカタマリだからというのが理由なようだ。
日本人はブランドに弱いのだろうかとも思ってしまう。国内では、真珠と言えばすぐにミキモト、腕時計ならセイコーシチズンが思い浮かぶ。それはそのブランドなら安心ということもあるだろう。
このブランドのものを買っておけばまず、間違いはないと誰もが思っているのだ。しかし、それを作り上げるためには永年の努力が必要だったことはわかる。
しかし、このように好感度だけが支配する社会は生きづらいとも言えるようだ。それは、常に他者からの視線で自分を確認するシステムになっているからだった。やはり本当の価値は自分で確かめることも必要そうだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
好感度を上手く操ることのできる人だけが勝利していく図式。
「好感度UPの法則」齋藤孝著より。
これは男女の出会いの場として、一般的になった合コンについて齋藤氏が語っていたことだった。合コンは即断方式の際たるものらしい。好感度がその場を支配しているともいう。
結果として好感度を持たれるのではなく、目的として好感度が設定されているのだった。これを「人物即断社会」「好感度支配社会」とも呼んでいた。実に面白い見方だ。
この章のタイトルには「ニセモノの好感度に振り回されない」とあった。というのも、みんなが、観た目がいい人、好感度の高い人になろうと努力するようになっているからだった。
それはある意味、無個性で、ほどほどの好感度の人が集まる、均質化された社会だという。たしかにそこには、存在感のある人、骨のある人物は生まれないようだ。そこでは、なんだか人間的に面白味のある人に出会えそうもないな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
外見から見る好感度を優先することによって、中身の濃さやバリエーションななくなる・・・
「好感度UPの法則」齋藤孝著より。
筆者はここで、面白い実例をあげていた。それは、好感度を上げるためのビジネスが発達してきたことだった。若い女性が読む雑誌の3分の1くらいは美容整形などの広告が続いているようだ。
そういえば、タウン誌やフリーペーパーでもそんなような広告を目にしたことはある。ダイエットにしても、健康が理由ではなく、見た目をどう良くするかのために行われている。
他人から見られた時の印象の良さをどう作り上げていくか、ビジネスとして成り立っているのだった。ここには、女性誌にあふれる「好感度のための自己改造ビジネスの」広告の写真が掲載されていた。
見た目だけの印象を良くすれば、それで十分とは言えないだろう。キャリアや実力は好感度の前では、軽視されているようにも思える。齋藤氏は「義理がたい」「礼儀正しい」というような言葉は死語になったとも指摘していた。実に残念がことでもあるな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・