センスとは、「偶然に気づけるセンサー」だ。

「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。
しばしば、偶然だと思うよなことは経験しているが、それに気づかないことも多い。それが何度も続けば必然だとも言えるようだ。
どこかで出会っていたことを思い出せれば、それもセンスとも言えるのだった。大事なのは、前にも会ったことがあることを覚えておくことだったのだ。ちょっとしたきっかけで思い出すこともある。
今月の半ば、偶然に会社のM先輩と新宿駅のホームで会ったのだ。彼現在絵画のコーディネーターをしていた。その時渡された、港区での企画展を先日見に行って少し話をしたのだ。
すると、その会場にはかつてブログで少しだけ交流のあったYさんに初めてお目にかかることができた。Yさんも絵画のコレクターだった。氏の著書も読んだことはあった。
偶然が偶然を呼ぶことってあるものだと思った次第。人のつながりは実におもしろい偶然があるものだ。小さなギャラリーでは密度の濃い作品に出会え、若手の作家とも話ができよかった。
前から会いたいと思っていた人と出会えるのは、すごいことだと思った次第。ちょっとした偶然に感謝したいものだな。もし、M先輩とのすれ違いに気づかなかったら、Yさんとの出会いもなかったのだ。

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センスのある人には、ドラマがある。
「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。
ここでのタイトルそのままだった。そして、1行目には、次のように続いていた。「モノを買う時にそれに魅かれるのは、自分に訴えてくる何かがあるのです」と。
確かに、買ったあとで大事に使いたいものや、長年使いやすいものは、きっといい出会いがあったのだろうと思える。また、それを買った時のエピソードもあるかもしれない。
モノを買ったら、それなりのエピソードを語れる時は、幸せな時間を過ごしていると言ってもよさそうだ。それは、ある意味ちょっとしたドラマと言ってもいいのかもしれない。
筆者は“面白い人、センスのある人は、何を聞いてもモノからドラマを語れる”と自身が出会った人との経験から語っていた。たとえば、時計などのシリアルナンバーが自分の誕生日とぴったりなら、それはそれでドラマにもなりうるだろう。
また、たとえばいつも通る道が工事中だったので、違う道を歩いていたら、何か特別なモノに出会うこともある。花や樹木でも珍しいものに出会ったことは多い。

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身のまわりのささいなことに、気づけるか気づけないかがセンス。
「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。
オシャレをわかる人のところにオシャレなものは集まってくるようだ。また面白い人のところに、面白いものが集まってくるともいう。
センスがいい人は、ますますセンスがよくなるとも言われている。それは当然だろう。偶然に出会えるメーミングが面白く感じられる時もある。
たとえば、かなり前に韓国のドラマが流行った時があって、その走りは「冬のソナタ」だった。私は、これをもじって「冬のソシナ」を作ったことがある。
それまで作っていた手作り粗品も、冬に配るなら「冬ソシ」で行けると思ったのだ。偶然使えるネーミングに面白味を感じたものだった。
ちょっとしたものでも、パロディー化すれば、それなりに自分らしさの演出もできるものだ。また、それをやる時のタイミングも大事な要素とも言えそうだ。

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