センスのある人は、毎日いろいろなメリハリがあります。

「なぜあの人には、センスがあるのか」中谷彰宏著より。
つまり、毎日それなりに、ちなんだことができるということだった。たとえば、記念日が、誕生日とクリスマスとバレンタインデーだけだったら、暮らしに弾力性がないという。
そういえば、かつて「サラダ記念日」というのがミリオンセラーになったが、勝手にいろいろなものをこじつけで記念日にしたら、けっこう面白そうだ。
オシャレなレストランには、そのシーズンの花が飾ってあったりする。12月になればポインセチアがクリスマスをイメージさせる植物だろう。
また赤い実のついた西洋ヒイラギやクリスマスリースなども飾られるだろう。「○○にちなんで」というのができると結構楽しめそうだ。ちょっとしたものに気づくことでセンスも磨かれるのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フィクションが理解できないと、ユーモアのセンスがなくなる。
「なぜあの人には、センスがあるのか」中谷彰宏著より。
ギャクにのっていけるのも、フィクションが理解できるからだった。ここには、また次のようにもあった。“「たとえば話」をどれくらい楽しめるかは、あなたのセンスや想像力がどれだけあるかにかかっている”と。
なんでも「なってみないとわからない」と答える人にはセンスがないようだ。たとえば、をもっと楽しむべきだったのだ。ユーモアのセンスは、のっていけるセンスだった。
楽しむというのは、現実にあることだけを楽しむのではなかった。センスのいい人は、どんな質問をしても、必ず自分なりの答えをすぐに出す人だった。
ここでの結論は「フィクションを、楽しめる遊び心を持とう」だった。確かにいろいろなことを想像するだけで、楽しめるしそれを実現すれば、結果的にクリエイティブなこともできるものだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「マイ遺産」をどれだけ持てるか・・・
「なぜあの人には、センスがあるのか」中谷彰宏著より。
遺産にマイをつけること自体が新鮮な発見だった。一般的には世界遺産を思い浮かべるものだが、それは大多数の人にとってのものだった。
自分の場合は、場所に限らななくていいようだ。お気に入りのモノ、人、レストラン…といろいろなものが対象だった。
それは、自分が熱中できる何かの対象のようなものかもしれない。趣味やスポーツ、気に入った喫茶店のコーナー、人によってはSNSやブログも入るかもしれない。
センスのある人は、「好きなレストランはどこ」とは言わないようだ。たとえば、おはぎは、ここのものが一番好きといえることだった。つまりしっかりした自分なりの価値観(こだわり)をもっていることだった。
好きな映画ベスト3でも、好きなお好み焼きベスト3でもよかったのだ。自分にとっての本当のお気に入りを持っているだろうか、とふと考えてしまった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・