タイトルで「おや?」を誘う。

『一瞬で伝える「わかりやすさ」の技術』齋藤孝著より。
まず、私たちが本屋で漠然と本を眺めていて本を手に取るときは、やはりタイトルが気になるものが多い。だから、作家や編集者はタイトルを工夫するのだろう。
また、内容は時には「おや?」とか「なるほど」と思わせられれば、成功したとも言えそうだ。しかも、読後に「ちょっと得した」感が与えられればいいと齋藤氏はいう。
タイトルは、重要だということはわかる。しかし、またそれだけでは全く想像もつかないことも多い。言い切ったり、疑問形にしたものもある。
大胆に言い切った、エッセイの例として「すべての男は消耗品である」(村上龍)や「人間失格」(太宰治)を挙げていた。確かにインパクトがある。オリジナリティのある造語でもいいらしい。

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ブログやエッセイのよさは、厳密さを要求されない気楽さにある。
『一瞬で伝える「わかりやすさ」の技術』齋藤孝著より。
(前日のつづき)
確かに「すべての男は消耗品である」というような強引ない方をされれば、中にはそれに反発する人もいるかもしれない。しかし、言い切ってしまうところもまた面白いところだ。
賛否両論あるからこそ、インパクトがあるとも言える。やはりあたり前のタイトルでは、無数の本の中からは手にとってはもらえない。
齋藤氏は、言い過ぎ感こそ「表現の自由」というものではないだろうか、と述べているが、まさにそれは的を得ている。個人ブログででも、タイトルは言い過ぎるくらいでちょうどいいらしい。勇気がいるかな。
さらに、仮にそれが間違いであったとしても、誰にも迷惑がかかるわけではないという。まあ、コメントで突っ込まれたり、場合によっては炎上するかもしれないが。
まあ、独りよがりの言いぱなしの無責任では、読む人もいないだろうが。たとえば、だらだらとつまらないことを書きつづけているこのブログのように。ま、いいか。

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“問い”のない文章は、なかなか読む気になれない。
『一瞬で伝える「わかりやすさ」の技術』齋藤孝著より。
まず、ここでのタイトルは「文章とは読者への“プレゼント”」となっていた。実はこれ自体でなるほどとも思わせられた。もちろん、その内容が読者に伝わってこそだとは思えるが。
タイトルを工夫する習慣を持つことで、中身も良くなると齋藤氏は自身の経験から語っている。そういえば、齋藤氏の本のタイトルだけで何十冊も購入していたことを思い出す。もちろんどの内容も素晴らしい。
しばしば文書は起承転結といわれるが、その「起」の部分で“問い”が立てられることで、ドラマが生まれるという。読者をここで惹きつけられるかどうかがポイントでもあった。
齋藤氏の授業では、日一つの大きなテーマを、三つの小さな“問い”に分解して解き明かしていくようだ。“つかみ”が大事だという。また我田引水的な論理の構築も必要らしい。この考え方も面白い。

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ゼロベースでオリジナルなことを立ち上げるのは、誰にとってもとってもきわめて困難だ。
『一瞬で伝える「わかりやすさ」の技術』齋藤孝著より。
そこで、引き合いに出しているのが、文豪ゲーテだった。彼は「自分にはオリジナリティや創造性など特にない」と告白しているという。
そこで、重要なのは組み合わせだったのだ。世のなかに溢れているアイデアだって、ほとんどが組み合わせから発想されていることが多い。むしろ新しい発見、発明などは稀なのだろう。
私たちに大になのは、素材を見つけることだった。仕入れたネタやインスパイアされた噺を、即座にメモできるかどうかも分かれ目だろう。複数集めるというところがミソらしい。
そして、一見関係ないものをつなげてみると、それなりにインパクトがある。それで、もうオリジナルにもなる。あとは、読者へのサービス精神が発揮できればいいのだろうが。
プロの作家はさすが、お金を払ってでも読みたい内容に仕上げている。素人は、逆にタダでも読む気になれないものばかりなのだろうな。読む価値もなく、時間もムダになるし。このブログもまったくそうに違いない。