「雑菌主義」で生きる・・・

「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。
実にインパクトがある題名だと思って本を手に取ってしまった。ここでいう雑菌とは、自分の身にふりかかってくる不愉快な刺激やわずらわしい事柄を指していた。それらに対して免疫をつけることが必要だという意味だった。
ついつい雑菌的なものは排除したくなってしまうものだが、それらを拒否することなく、自分のなかに取り込んでいくことで、自己免疫力も高まるようだ。
まあ、いろいろなことは経験したほうが、あとでものごとの処理がしやすくなるということは理解できる。若ければ何でも解決できる問題と、そうでないこともある。歳をとれば、ちょっとした経験がモノをいう場合も多い。
いずれにしても社会で行くていくこと自体が雑菌のなかにいるのと同じようなものだ。不愉快だと思われるクレームからも学べることもある。雑菌になれることで仕事がスムースに行き、人間としても成熟するようだ。

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人間のからだには常在細菌と呼ばれる大量の細菌が生息している。
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。
いくらきれい好きとは言っても、誰でも細菌を持っている。それらがあることで、外部の微生物の侵入からからだは守られているということだった。とくに大腸は細菌の住みかだった。
人間の免疫力の70%を働かせているのが腸内細菌らしい。その種類は百種類以上もいると言うから驚いてしまう。しかも重さは1キロもあるらしい。だからこそ生きていられるのだった。
かなりい加減なものを食べても、すべて腸内細菌が闘ってくれ、消化して受け入れてくれているのだった。そして栄養素としてくれている。実にありがたいことでもある。
ふだん見た目で美味しそうなものばかり食べてしまうが、そんな消化吸収などあらためて考えたことはなかった。すべての菌を敵だと考えて排除してしまうと、逆に免疫力も落ちてし健康を損なってしまうことにもなるらしい。
「善玉菌」も「悪玉菌も」あって当然なのだ。何ごともバランスよく保つことも必要ということになる。気をつけねば。これからは「抗菌」よりも「好菌」ともあった。率先して醗酵食品を食べたい。

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徳俵でラストチャンスをつかめるか。
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。
大相撲夏場所は白鳳の25回目の優勝(全勝優勝)で終わった。だからこそ、このフレーズが気になった。土俵には徳俵というこのがある。土俵のその部分だけ少し後ろに下がっている。
寄り切られた場合その部分に足がかかって、粘って持ち直すこともできる。つまり切羽詰まった状態という時に、底力が発揮できるかどうかは大きい。本当に相手より強い人は盛り返すことができるのだろう。
そして、粘り腰が強い人は、また免疫力が高いとも言えるらしい。気持ちで負けてしまったらその時点で、もうおしまいになってしまう。いろいろな世界で、これが最後だと思って、不退転の決意をしたというような表現は時どき目にする。
スポーツの世界、芸能の世界、お笑いの世界…などさまざまだ。よく、小説家を目指して何度も落選を繰り返して、これでダメなら諦めるという作品で編集者の目にとまり、デビューしたような人もいるようだ。
しかし、そんなラッキーな人はごくわずかなのだ。瀬戸際でどれだけの力が発揮できるか。そうは言っても、世の中には自分一人ではどうにもならないことの方が圧倒的に多いものだな。

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雑菌もふりかけられているうちが花。
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。
たとえばミッションやオファーがなくなった時、つまり「雑菌ふりかけ」がなくなったときは、自分を広げていくのがものすごく難しいという意味だった。
他者のリクエストが全くない生活だと、どんな人でも伸びにくいという。
これは筆者自身の経験からも言えるようだった。齋藤氏は期せずして大学院に十年近くもいたために、他者からのリクエストがまったくない生活に陥ってしまったという。雑菌すらふりかけてくれなかったと振り返る。
そんなつらい状況を経験したからこそ、いま来ている仕事は断れないのだろう。だからわずらわしいことからも逃げてはいけないとしみじみ述懐している。
面倒くさいこと(つまりそれが雑菌になる)もふりかけられているうちが花だと語っている。白米もいいが、それにふりかけがあればなお美味しく食べられるというのと似ているのだろうか。

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他動的要素を受け入れる柔軟さ・・・
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。
ここでの小タイトルは“菊池寛にあって芥川龍之介になかったもの”となっていた。ちょっと興味深い。どちらも知名度の高い文学者だったが、菊池は文学的才能については、芥川のほうが才能があることはわかっていたのだ。
純文学ではあっさりと負けを認めて、多くの人が楽しめるものを書く方向に向かったのだった。そして、『文芸春秋』という雑誌のフィールドを作って、ほかの作家に原稿料を払って、文士たちの暮らし向きを救済、向上させいこうと考えたのだ。
一方芥川龍之介は文学的才能は優れてはいたが、自分を追い込む傾向があったため、三十五歳で自ら命を絶ってしまった。ある意味彼には雑菌的な社会適応力がなかったと齋藤氏は語っている。
むしろ雑菌主義とは、厳しい現実社会を乗り切っていくためには必要なことだということだった。ただ単に純粋だけを求めても行き詰まることもある。むしろ生きるために必要なのはしぶとさなのだろう・・・な。

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「大雑把力」は、情報過多の現代にこそ求められる力。
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。
大雑把な奴だと言われれば、いかにもいいかげんな人間のようでもある。つまりネガティブで決していい意味ではないようだ。
しかし、仕事ではとりあえず本筋を見定めて、大づかみにポイントを押さえると考えれば、積極的な意味合いであることもわかる。
大雑把は「大きく、雑に、把む」となるが、この力がつくと仕事もスピードアップされるようだ。まず仕事の全体を見ることで、流れをつかむのは大切なことだ。
雑多ななかから自分に必要な、または価値がある情報をどれだけつかめるかは、日々の生活の質を向上させるとも言えそうだ。
雑多パワーの代表は「雑誌」だという。多くの人によって、さまざまな記事、写真、広告などを目にすることになる。そして偶然目にしたことのなかに自分にとって価値ある情報が含まれていることもある。
当初の目的とは別なものを目にすることもあるが、そんな意外性のある出会いがいい刺激となって新しい発想のチャンスともなりえるのだろう。