生涯の豊かさは、どれだけこの世で、「会ったか」によって図られる。

「老いの才覚」曽野綾子著より。
「会ったか」とは人のことばかりではなかった。自然、出来事、魂、精神、思想まで含まれていた。そう言われると確かに、たくさんい出会いや触れ合いがあればそれだけ人生も充実したものになりそうだ。
しかも、そのうちいい出会いがたくさんあるほど、よりいい時を過ごしたとも言えるのだろう。何げなく過ごしてはいるが、ちょっと意識することで、意外に身近にいい出会いをしているのかもしれない。
しばしばそれに気がつかずに過ごしてしまうことがあるのだろう。筆者は、何も見ず、誰にも会わず、何ごとにも魂を揺さぶられることがなかったら、その人は人間として生きてなかったことになるのではないかとも語っている。
そういえば、それとやや似たようなことを作家の森村誠一氏も書いていたのを思い出した。森村氏は、いくら素晴らしい作品を書いたとしても、それを読むべき読者がいなければ、書かなかったのと同じことだと書いていた。
やはり、芸術作品もそれに触れて感動する人がいて初めて作品になるともいえるのだろう。人もいい出会いがたくさんあるほど、いい人生を過ごしたとも言えそうだ。

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冒険は青年や壮年のものではなく、老年の特権・・・
「老いの才覚」曽野綾子著より。
このフレーズを目にしたとき、多くの人はプロスキーヤー三浦雄一郎さんをおもいだすのではないだろうか。80歳にして、エベレスト登頂に挑戦するのは本当に驚いてしまう。
当然ながら、長い日々を費やしてハードなトレーニングを積重ねたからこそできる挑戦でもある。並みの人ならとてもそこまでの体力も精神力も持てるはずはない。
80歳を超えてからいきなりハードな挑戦をするのは、実に危険なことだとも思える。しかし、それまでの長年の経験とノウハウを活かせるという自信があれば、それも可能なのだろう。
また、何でも安全第一と考えて、ちょっとでも怖いことや危険に全く近づかないという用心深い人は、同時に面白い体験もできないとも言える。危険を考えたら、家から出れないことにもなりそうだ。
いろいろな責任から解放された老年には、冒険もまた特権であると、筆者は自分の体験からも語っている。若い現役の頃と違っていろいろな責任から解放された後には、年寄りの冷や水もいいのかもしれない・・・な。

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若くても、他者への配慮がなくなったら、それが老人・・・
「老いの才覚」曽野綾子著より。
老人かどうかは単なる実年齢とは関係ないと思えることがある。若くても反応が鈍い人は、老年に近いのではないだろうか。
曽野さんは、老齢になって身につける「老人性」には、二つの柱があるという。一つは、利己的になること、もう一つは忍耐がなくなることだそうだ。
これを読んでみて、わがままな老人にはなりたくないものだ、と今は思っている次第。ジコチュウな人は、若くても老年でも見ていて、いい気はしない。
筆者は、たとえば電車の中で足を投げ出して座っていたり、眠りこけている人は二十歳でも老年だと指摘していた。
逆に他者への気配りがあれば、70代でも壮年だともいう。その年齢になるまでに、いろいろと身につけなければならないこともあるのだろうな・・・