「ウマい」「ヘタ」「オモシロい」。

「ヘタウマ文化論」山藤章二著より。
筆者はこの上記三者の関係はどうなっているんだろう、と考えていた。面白いところに着目している。普段はウマいかヘタかのどちらかだが、そこのオモシロいというものを入れてきている。
芸術でも何でも本当にウマいと思うような人は、時間がかかるから滅多に出てこない。しかし、「妙なやつ、オモシロイやつ」はヒョンなところから現れてくるようだ。
筆者の経験からも次のように語っていた。約半世紀前にさしえの世界に登場したとき、すでにその世界では巨匠と言われる人たちが活躍していたのだ。
そのとき、山藤氏は彼らやマスコミの編集者かた「さしえにオモシロいやつが出てきたな」と評判を受けたと述懐していた。それに勇気づけられて自分のスタイルを固めていったそうだ。
別に巨匠や名人ではなくても、それなりに継続していれば、評価されてくるようだ。ヘタからウマいと言われるまでは大変な道のりだが、そこにオモシロいという要素が加われば、違った道も開けるのかも。
最近ではテレビにお笑い芸人が毎日のように出演しているが、彼らすべてがウマいとはとても思えない。ちょっとだけオモシロいだけだろう。しかし、そのオモシロさも飽きられず継続できるかどうかが分かれ目だろうな。

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ウマくなって、孤立するより、ヘタな方が、面白くて、多くの人に伝わるものがある・・・
「ヘタウマ文化論」山藤章二著より。
これはモノマネ維新と題する部分で目にしたフレーズだった。ものまねは確かにそっくりに真似られていればいいのだろうが、それだけではエンターテイメントそしてはややもの足りない。
たとえそれほど似ていなくても、デフォルメされた部分で面白さが出ている方が、飽きがこないと思われる。さらにもう一度見てみたいとも思うのではないだろうか。
練習した後で「ウマくなって、それがどうしたの?」と訊かれたら一瞬返事に窮するだろう、と山藤氏は語っている。似ているだけではなく、そこからどれだけ笑いをとれるかの方が大事なのかもしれない。
山藤氏が1971、2年頃タモリとの初対面で寺山修司三遊亭円生のものマネを聴いた時、芸としてはさして、「ウマくないな」と思ったと述懐している。しかし、芸よりもセンスやインテリジェンスにショックを受けたという。ヘタでも面白ければよかったのだ。

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本当はウマく描けるのにわざとヘタに見えるように描く。
「ヘタウマ文化論」山藤章二著より。
つまり、山藤氏が言うヘタウマとはこのような感じの人だった。そしてミスターヘタウマとしてイメージしている人の名前をあげるなら、漫画家の東海林さだおだという。
55年もの間漫画を描き続けているようだ。半世紀も描きながら、ヘタさを失わないのはすごいことだと山藤氏は尊敬している。その理由として、次の3つをあげていた。
1、「ヘタさ」は読者が作者と同一の視点に立てる。2、「ヘタさ」は見る人の心をやわらげる。3、「ヘタさ」はたちまちおもしろい世界に参加できる。こういわれれば、確かに親しみを感じられそうだ。
そして、東海林漫画の不滅の人気は、「偉大なるヘタウマ」と「信念をもったマンネリ」にあり、日本のヘタウマイラストの元祖的存在だと語っている。何を描いても自分のスタイルで描けるのはすごいことだ。
そういえば、ピカソの絵なども見方によっては、まるで小学生が描いたようにも見える。しかし、本来は誰もが認める天才画家で、少年期のデッサン力はすごく、絵画作品は実に上手い。成人以降はその写実画をどんどん進め、半具象、抽象の世界にまで到達していたのだ。