六十歳からこそが、好きなように生きられる「人生で一番自由なとき」

「人間、60歳からが一番おもしろい!」保坂隆著より。
これは一般的には会社などの組織に勤めて60歳で定年を迎えた人だけが感じられることではないだろうか。もし、定年という一区切りがなければ、そのままの仕事の状態がまだ数年先まで続くと思われる。
数年前に地元の整骨院に言った時そこの先生が、「私のような仕事をしていると、定年がないので、区切りがつきませんね。その点、サラリーマンはいいですよね」としみじみ話していたことを思い出した。
ある意味定年がない仕事は、60歳になったからといって、それなりに収入も激減することもなく続けられるからいいとも考えられる。また、長年仕事を続けたという一区切りがあれば、またリフレッシュできるのかも。
どちらがいいのかはわからないものだ。元気なうちは、ある程度仕事が続けられればありがたいことかもしれない。実際は、仕事がしたくてもなかなか見つからないということも事実だろう。
ここに、筆者の言葉があった。「これまでの人生で重ねてきたけいけんや苦労は、これからの毎日を心から楽しみ、幸せに生きるための滑走路だったのかもしれない」と。まあ、60歳以降に好きなことに時間を費やせるなら幸せといえそうだ。

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「これから何をしよう」と悩めるのは最高の贅沢。
「人間、60歳からが一番おもしろい!」保坂隆著より。
何かやりたいことを見つけている時間というものは、たしかに仕事に追いまくられているときより贅沢な時間を過ごしているともいえそうだ。強制されない時間はありがたい。
もし、仕事からまったく離れているなら、時間はたっぷりあるはずだ。いきなりそんな時間のなかに放り込まれたら、どんな気持ちなのだろう。まだそんな経験はないのでわからないが。
現役時代には読めなかった本や行ってみたかった旅行、見たかった映画、聞きたい音楽・・・なんでもできそうな気もする。とはいっても、ある程度経済的に余裕も必要だろうが。
いずれにしても、気分的にあくせくする必要もない。たとえ会社勤めをしていても、定年後は責任もぐっと減ってくるから、その間にやりたいことを見つけてもいいのかもしれない。

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無理をしない「自然体」が格好いい。
「人間、60歳からが一番おもしろい!」保坂隆著より。
ここでの無理をしない、という意味は、たとえば「まだまだ若い者には負けないぞ」というような頑張る気持のようだ。筆者は肩に力を入れない方がいいとアドバイスしている。
気持ちは若々しい方がいいのだろうが、体力はついていかないものだ。まあ、現役時代に頑張ったから今があると考えたほうが楽でもあろう。今さら頑張らなくて誰にも文句は言わせないのが老いの特権だというくらいで言いそうだ。
筆者は、意地を張るよりも、むしろ人間としての器の大きさを感じさせるべきだという。そして年相応に悠然と生きることをすすめている。いぶし銀の輝きというのが理想らしい。
もし、人生を楽しもうと思うなら、どの世代であっても「らしく」生きることがその秘訣だったのだ。今さらもう、体力だって今以上に上がるとは考えられない。むしろ維持することのほうが大事なのだろうな・・・

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「やりたいことリスト」が充実した老後をつくる。
「人間、60歳からが一番おもしろい!」保坂隆著より。
いきなり老後という言葉を聞くと、やや抵抗があるが、生きている限り誰にでもやがてその時は必ずやってきてしまう。何時からがその老後なのかはわからない。
60歳を過ぎて、仕事を離れたときからだろうか。リタイアすれば、時間管理はすべて自分でしなければならなくなる。何もしなくても時間はどんどん過ぎてしまう。
その時間を無駄遣いしないためには、やりたいことを明確にしておくことだった。頭のなかで漠然と考えているだけではだめなようだ。やはり思っても目に見えるようにリストアップすることが大事らしい。
たとえば、どこそこへ旅行する、あるレストランで食事をする、やりたかった勉強をする・・・など、まずはできるできないにとらわれないこともポイントだった。
短期、中期、長期の人生目標がはっきりすれば、それに向かう気にもなってくるようだ。そう考えるとたっぷりあると思われた時間も短く感じられそうだ。

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「真摯さ」を追求するなら、上司の命令に背いてでも、自らの責任で最善策を導き出す必要がある。
『使える!「孫子の兵法」』齋藤孝著より。
真摯さという言葉は、ドラッカーの書物にも出てきた。齋藤氏は、これは単に「誠実さ」「まじめさ」とはニュアンスが異なるという。そこには仕事や組織に対する倫理観やひたむきな態度が含まれると考えていた。
孫氏の兵法の中では、戦闘の道理として絶対の勝算があるときは、たとえ主君が戦闘するなといっても、戦闘してもいいという。また逆に勝算がなければ、たとえ命令であったも戦うべきではないと論じていたのだ。
職場での命令も同様らしい。組織の利益をまず優先して考えるべきでもあった。上司の命令だからといって、自分で考えることなしに従うのは問題だということなのだろう。
何も考えなくても、命令に従ってさえいれば、そこそこ仕事をやったことにはなるが、必ずしも上司の考えが最善だとは限らないものだ。やはり現場の状況を共有していることが大事のだろうな。

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組織で苦労した「負け」は、「勝ち」に等しい。
『使える!「孫子の兵法」』齋藤孝著より。
仕事でも常にいいことばかりはありえない。いい時も悪い時もある。たとえば売上げ予算をかかえている営業部門なら、勝ったり負けたりがあって当たり前だ。
結果的には負けではあっても、問題はその内容にも善し悪しがあるということだった。当初はマイマス20だったものが、軌道修正した結果マイナス5になれば、マイナスを食い止めたという結果でもあった。
負けではあっても、マイナスや損失を最小限に食い止められることが重要なことだった。負けても、チームプレーでベストを尽くしたなら、次回への課題も見つかるかもしれない。
ただ何となく結果的に勝ちにつながっても、その分析をしていなければ、次もまた勝ち続けることは簡単ではないだろう。しかし、苦しい戦いであるほど、簡単に勝った時より、組織の結束力は増すものだったのだ。