時間はとても大切だが、時にはそれをぜいたくに使う。

「歩くとなぜいいか?」大島清著より。
ここでのタイトルは“ゆっくり道を歩くのが「遊び」の起源だ”、とあった。つまり、歩くことそのものが遊びだという意味だった。そもそも「遊び」という字は「漂う」と「進む」が組み合わさってできたものだという。
ゆっくり歩くことを意識しなければ、ついついあくせくしてしまうこともある。そして、そんな慌ただしい時間を過ごしていると、なんだか時間を損しているような気にもなる。
やはり、時にはゆっくり気ままに歩いてぜいたくに時間を過ごしたいものだ。とはいっても、だらだら歩くのはよくないらしく、軽やかに、時にはゆっくりと歩くのがポイントだという。
この本に出会ってから、思い切って今までバスで15分かかるところを歩いてみたら、意外にも気持ち良く歩けたのだ。時間にして約50分間は、ある意味ぜいたくな時間かもしれないと思えた次第。今は歩くのにちょうどいい季節のようだ。

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食べることも歩くことも、体と脳全体を使った快感運動と考えていい・・・
「歩くとなぜいいか?」大島清著より。
風を感じながら自然の中を歩いていると、確かに気持ちがいい。また、気の合った友人たちとの食事も楽しい。これらの幸福感はどちらも同じだったようだ。
「食」と「歩くこと」はつながっているらしい。ここにおもしろいことが書かれていた。それは「食」という字を分解すると「人」を「良」くするとなっていたのだ。食は人を良くすることのようだ。
何がどう良いのかはわからないが、よく噛んでよく歩けば健康的な生活を送れて、脳の老化を防げるともいう。実に単純なことだが、脳の専門家の医学博士が言うことだから聞いておいても損はないだろう。
さらに旺盛な好奇心さえあれば、食文化はいくらでも堪能できるらしい。しかもどこへでも歩いていけば、なおよいのだろう。筆者の経験からは、「食」と「歩」は快活に生きるための両輪だそうだ。

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頑丈で故障知らずのものは、ローテクノロジーの中にあることが多い。
「歩くとなぜいいか?」大島清著より。
何でもハイテクのものばかりが、優れているわけではなかった。たとえば、職人の手仕事は、機械には及ばないほどの製品を作りだしている。また使わなくてもいい機能ばかりが増えても、むしろ使いずらくなってしまう。
そこで、筆者が愛用しているのは、リュックと作務衣だった。年間を通じて、このスタイルを通しているのだった。それは体型にぴったりだからだそうだ。作務衣ほど着やすくて行動的なものはないともいう。
私も夏には連日のように作務衣を着ることがあるが、リラックスできるような気もする。あまり締め付けられなくて、通気性もいいものだ。そのままでは外出はしないが、せいぜい自宅内と庭に出る程度だが。
どんなものにも機能的なものには、それなりの美しさもある。作務衣やリュックはローテクノロジーの代表だというが、確かに故障はないだろう。ポイントは次の3つあるようだ。
1、素材のしっかりしたもの。2、伝統に培われたもの。3、変わらないもの。そう言われてみれば、身近で長く使われているものは、ムダがなく、実にシンプルで使いやすいものだと気づく。