ギャラリストは「現代」アートの伴奏者・・・

現代アートビジネス」小山登美夫著より。
この本で初めてギャラリストという言葉を聞いた。これはが画商とも似ているものだった。画商は絵を売買する職業(美術家と顧客を仲介)で、ギャラリストは展示空間(=ギャラリー)を持って、みずから企画展示をする職業だった。
そして、みずからのギャラリーで発掘したアートを発表して社会に価値を問いて、さらに価値を高めていく仕掛け人だという。マネージメント業者やプロデューサーとも言えた。
今までそんな言葉も意味も知らなかったが、そういえば私の知人の一人も、しばしば画廊での企画展示をしていたことを思い出した。そして、名刺にはあるギャラリーの顧問という肩書があった。
今まで案内をいただき何度かそれらの企画展を訪問したことはあった。やはり展示作品にはその人の好みの画家の作品が展示されていた。タイトルにもあげた「伴奏者」という言葉は適切なのかもしれない。
私自身もともと絵画を見ることは好きなので、デパートはじめ街中の画廊には時どき行き、しばし絵画の世界に浸ることはある。先日もある市の画廊で開催されていた水彩画のグループ展を拝見したが、アマチュアにもかかわらず、レベルの高さを感じる作品が多かった。
なお、この章のタイトルは「誰も見たことのないものに価値を見出す ギャラリストの仕事」となっていた。やはり長年の経験と実績がなければ絵画作品を見る目は養われないのだろうな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どんな作品でも何らかの理由で売れるし、またそれが現実・・・
現代アートビジネス」小山登美夫著より。
筆者がかつてアメリカのギャラリーを見て歩いたときに感じたことが述べられていた。アメリカはアートビジネスの本場でもあったのだ。
小山氏が驚いたのはギャラリーの数の多さだった。しかもそれらは多様さでもあった。つまり日本よりアートマーケットは層が厚いとのことだった。
たとえば、犬の絵だけ、帆船の絵だけ、または肖像画だけしか扱わない専門的なギャラリーがあるそうだ。つまりそれらが存在しているのは、お客さんがいて需要があるからだった。
こんなものが、と思えるものが売れていったという。よいと思える作品だけではなく、さまざまな作品が売れるようだ。どんな作品でも買い手がいいと思えば売れるということだった。
普通の商品でも、一般の人が見向きもしないものでも、マニアックな人が見れば欲しくなるものもあるのと同じ理屈で、絵画も売れるようだ。交換が成り立てば、マーケットができるのだった。
そして後日、アメリカに小山氏が持ち込んだ作品をアートフェアに出展したところ、初めて見る作品にもかかわらず次々と作品が売れたことに驚いたという。それだけ作品自体にインパクトがあったのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

作品以外に、コミュニケーションツールを意識的に開拓していった・・・
現代アートビジネス」小山登美夫著より。
これは有名な現代アート作家の村上隆氏のことだった。人によっては村上氏のことを「戦略なアーティスト」とも読んでいるらしい。いくつかの書物からも制作過程もメディアへの訴求もなかりダイナミックな印象がある。
小山氏は村上氏とは学生時代からの知り合いだったようだ。そして現在も小山氏のギャラリーでも取り扱う作家のひとりだった。村上氏は完成した作品をどのようにして、プレゼンテーションをしていくかまで考える作家だった。
それまでの画家なら作品だけ制作して、あとは画廊や画商に作品をゆだねていくのが普通だったようだ。しかし、村上氏はかなり若い頃から、作品のイメージをメディアに対してファックスで送信していたという。現在のホームページやブログにあたるのだろう。
さらに美術界での人脈作りも積極的だったようだ。実にコミュニケーション作りにバイタリティが溢れていたことがうかがえる。やはり作品は多くの人にアピールしなければそれなりの評価も得られないことを熟知していたのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の経験や考えていることを誰もが口にできるよう、身近な話題を楽しそうに膨らませてくれる。
『なぜか「人のこころをつかむ男」の共通点』弘兼憲史著より。
ここでのタイトルは「新入社員の心をゆったりさせる社長」となっていた。入社したばかりの社員が、社内報の企画で社長へのインタビューを命じられたのだ。当然プレッシャーがかかるだろう。
いったいどんなことを聞いたらいいかさえもわからないだろう。無難な質問では退屈になってしまうものだ。しかし、終わってみれば予定のい1時間を30分もオーバーしていたという。
その青年は緊張して眠れず朝食も取れなかったということを正直に話したようだ。すると、その社長は穏やかな笑顔を浮かべて「いつもはちゃんと食べていますか」と尋ねたという。
その朝食の話はさらに発展して、いつも食べている朝ごはん、好きな朝ごはん、子どもの頃の朝ごはん・・・など1時間半のほとんどが朝ごはんの話題だったのだ。社長自身が楽しそうに話してくれたことで、青年の緊張もほぐれリラックスできたのだ。つまりそんな気遣いができる人は人のこころをつかめる男だということなのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
興味や好奇心にいつも振り回されてしまう初心者(素人)の生き方。
『なぜか「人のこころをつかむ男」の共通点』弘兼憲史著より。
つまりそれができる人は自在な人生を送れる人だという意味だった。ここでのタイトルは「どうせ生きるなら“最強の素人”でありたい」だった。この最強の素人という言葉もいいフレーズに思えた次第。
それはいったいどういう人だろう。ここにある落語の結末が書かれていた。そば好きの江戸っ子が死ぬ間際に「ああ、一度でいいからツユをたっぷりつけたソバが食いたかった」というものだ。
ソバの「通」ならそばにツユをたっぷり浸しては食べない。本音ではツユをたっぷりつけて食べたいのに我慢していたということになる。そこで、「ねばならない」という決まりごとに縛られているうちは、楽しめないことの方が多いことに気づく。だったら、むしろ玄人ぶるよりも素人であったほうがいいということになる。まあ、楽しんだもの勝ちということの時には念頭に置きたいものだな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
機嫌のよさは基本的な体力と健康・・・

『なぜか「人のこころをつかむ男」の共通点』弘兼憲史著より。
「人のこころをつかむ男」に共通しているのは、いつも機嫌がいいことだった。これがなかなか難しい。健康であればこそ気力も生まれてくる。
確かに男でも女でも不機嫌な顔を滅多に見せない人は時たまお目にかかる。きっとそういう人は仕事もできるのだろうと思わせられる。
ストレスをうまく解消して、気分転換をはかるのがうまいのだろう。
体の調子がほんのちょっとだけ気になっても、言葉に迫力がなくなってしまう。とはいっても、歳をとるにしたがって、完璧にどこも悪くない人などいないのではないだろうか。
いいアイデアが浮かぶのは、やはり体の調子がいいときだろう。楽しく生きるためには、基本的な体力は必要なものだった。やはり調子のいいときほど、意識して体調を維持したいものだな。
最近いい汗をかいたことがなかったが、今日久しぶりに50分ほど歩き続けたら、汗をかくことができた。やはりいい汗をかいた後は気分がいい。まずは仕事の前に体調管理かな・・・

////////・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

対話の中でこそ、新しいアイディアが引き出される。
「ビジネス革新の極意」鈴木敏文齋藤孝著より。
この一冊は二人の対談形式になっていた。齋藤氏が鈴木氏に、講演をする際にはあらかじめ原稿を用意しているのかという質問をしていた。
鈴木氏は基本的に原稿などは用意していないという。その場にいる人たちを見て話を進めていくようだ。たとえ事前にレジュメを用意した時でも、それが気になってしまいいつもの調子ではいかないようだ。
齋藤氏は、それは生きが悪くなるからだろうと判断していた。確かにすでに出来上がったものがあると、逆にその場で新しいことを思いつかなくなるのかもしれない。
せっかくの講演も勢いが失われたらもったいないものだ。また齋藤氏自身も原稿はまったく用意しないという。その場に応じて話を進めるようだ。
やはりこんなことができるのは、話すことが仕事になっているからでもあるのだろう。そして、クリエイティブな対話というものは、新しい意味が生まれるともいう。
対話しているうちに、その刺激で今まで潜在的にあったものがパッとアイディアとして出てくるようだ。このお二人の対談自体も実にクリエイティブだと感じさせる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

漫然と情報を取り入れるのではなく、仮説を立てて問いかける。
「ビジネス革新の極意」鈴木敏文齋藤孝著より。
鈴木氏の著書を読んでみるとしばしば「仮説」という言葉がでてくる。あらかじめ自分なりに仮説を立てて問いかけることで、情報の密度が変わってくるのだろう。
たとえば、鈴木氏は交通情報ひとつでも、自分たちの商売の中ではどのように活かしていけるかを考えるべきだという。常日頃から、幅広く関心を持っているからこそ情報もつかめるのだ。
お客様は情報で動くと言うが、まさにその通りだ。別の会社でリストラが取り上げられるたびに、不況感を持ってしまうものだ。情報で消費活動は大きく変わってしまう。
ということから、今どんな情報が流れているかをという情報感度を高めておくことが商売には必要だという。そして、それを自分の立場に置き換えて考えるということだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の身に経験とセットでしみ込んだ言葉が力を持つ・・・
「ビジネス革新の極意」鈴木敏文齋藤孝著より。
鈴木氏は、社員には、「話をするとき、本で読んだとか、誰かに聞いたというような話はしてはいけない。自分の知っている範囲でしか話してはいけない」といつも言っているそうだ。
やはり書物やパンフからの情報は借り物だという。自分が仕事の中で判断し、分析し、自分なりに編集した情報こそ本当に価値があると鈴木氏は主張している。
齋藤氏は、もし引用する場合も、覚えていて言うのと、読み上げるのでは、まったく違うと話していた。ゲーテシェークスピアの言葉も、何かの折にふと引用できるのは教養だという。確かに普段からそんな言葉に親しんでいるのか、とわかると感心してしまうものだ。
鈴木氏はハウツーものは読むなと社員に言っているそうだ。それをもとに何かに役立てようとするのは間違いだと思っていた。自分たちの問題は自分たちで解決すべきだという主張だった。
やはり体験を通さないと本当の解決にはつながらないということだろうな。人がどうこう言ったということでは説得力に欠けるものだ。経験したことから出る言葉はそれだけでも伝わりやすいだろうな。