主体性のない休みをいかにして主体的に過ごすか。

「人生を愉しむ知的時間術」外山滋比古著より。
忙しいととほど、当然ながらヒマになりたいと思うのは当然だ。そして、なんとかして時間を作ってその時間を楽しめた時は、充実感もある。英語にはmake holidayという言い方があるようだ。つまり休みは作るものということになる。
つまり、休みははじめからあるものではないということなのだろう。仕事にしても、日常にしても常になにかやることがると考えるのが一般的ということかもしれない。
ところが、現役を退けば時間はたっぷりできる。時間を作らなくてもヒマはたっぷりある。その時間をどう過ごすかが大事だったのだ。何もやらないのは、一見いいことのように見えてムダ時間を過ごしていることになってしまう。
筆者も、ただすることがないといった消極的な自由ではつまらないという。むしろ緊張と弛緩、またはプラスとマイナスをくり返していると、生活のリズムが生まれるらしい。自分に適したリズムをつくることが大事だと考えさせる。
ついでながら、この本のサブタイトルは“いそがば回れ”の生き方論、となっていた。知的生き方のベテランの筆者からはいくつかそのヒントはもらえそうだ。

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われわれの一日は小さな雑誌をつくるようなものではないか。
「人生を愉しむ知的時間術」外山滋比古著より。
これは実におもしろい表現だった。一日を雑誌ととらえ、そこに何を入れ込んでゆくかで一日の内容も質も変わってくるのだろう。毎日同じような仕事も、実はかなり違っていることにも気づく。
食事内容、人との会話や出会いもある。また、友人からの誘いやこちらから連絡を取ることもある。またそんなことは雑誌で言えば特集記事になるのかもしれない。特別なことがあれば記憶にも残りやすい。
さらに、週単位なら週刊誌のように、曜日によって仕事、家族や家での出来事が変わってくるのは当然だろう。気分転換に買い物や外出というのもある。
同様に月刊誌と考えれば、月単位で、また季節単位でも色とりどりの特集記事もできるのだろう。そう考えると何らかの計画を立てずに、だらだらと日々を過ごすのがもったいなく思えてもくる。
もし、有意義な日々を過ごしたいなら、しっかりした編集をしたほうがいいのかもしれないな。一生かかって作る雑誌の編集者は自分自身しかいないか。
ついでながら、ここには面白いマメ知識があった。雑誌の埋草記事のことをレクリエーションと呼ぶらしい。余暇の旅行や遊びも同じだ。また筆者は埋草がよい雑誌をつくるとも語っていた。