気力というものは筋肉にもい似ていて、使わないとすぐ衰える。

「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。
若い頃はよく、大事なのは気力、学力、体力などと言われたものだが、年齢を重ねるごとにどれも失われているのを実感する。森村氏は、心の老いは無気力を招くと述べていた。
そんなことになる前に、精神の筋肉を鍛える必要があるらしい。そのために大切なことは会話だという。仕事をしなければ、ほとんど誰ともしゃべらすに一日が過ぎていく。
しかし、日頃から会話を交わす友だちの存在が重要だったのだ。日々の過ごし方の中に会話を意識的に盛り込むことがポイントなのだろう。また行きつけの喫茶店があるというのもいいらしい。
とにかく外に出て誰かと会話して、気力を維持することで老いを遠ざけられるようだ。またたとえば、ボランティアなどでの小さな労働が心の筋肉を動かすともいう。

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老いからくるストレスの解消法・・・
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。
もしこの本のタイトルのように、五十歳でも老人〜だと思えるならもしかしたら、老いによるストレスを感じるのだろうが、今のところまだあまり実感はないのが幸いだ。
今はほとんどなくなっているが、むしろストレスは仕事面でのほうが多かったものだ。さて、老いからくストレスの解消法について、いくつか提案があった。
1、家に閉じこもらないで外に出ていくこと。2、趣味を持つ。3、趣味からつながる仲間をつくる。4、旅行をする。などだった。
とくに、1の外出は基本のようだ。2の生涯の趣味を持っているかどうかでストレスも違うようだ。3の趣味の仲間がいれば自然とコミュニケーションがとれる。4の旅行は心身に新しい刺激を与えられるからだった。
いずれにしても、どれも共通しているのは外に出て会話をしたり刺激を得ることだった。できれば気分転換に簡単な運動も取り入れたいものだ。
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趣味による「不在」の時間をつくる。
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。
要するに夫の立場からは、家にいない時間を作るべきだということだった。そのためにも外に出てする趣味が必要だったのだ。
一日中家にこもりきりでは、妻にも夫自身にも好ましくないからだった。夫の現役時代でも、妻から見れば亭主元気で留守がいい、というのが本音だろう。
それは夫から見ても同様なことがいえるはず。どんなことで閉じこもる生活から脱却することができるかを早めに考えねば。
その前提としては当然ながら健康を維持していなければならないだろう。まずは、外へ出るだけの気力、体力が必要だと思われる。

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表現欲とは、社会で生活するすべての人が持つ欲望・・・
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。
この章のタイトルは「リタイア後に自分史を書く、教養を身につけ直す」となっていた。確かに現役時代は、日々の仕事に追われて自分を振り返る余裕はないかもしれない。
また、勉強や研究もしてみたかったがその時間がなかったかもしれない。しかし、リタイア後ならその時間的余裕はあるだろう。その一つとして自分史をあげていた。
森村氏はすべての人には表現欲があるという。たとえば、ブログやフェイスブックツイッターを書いているような人が多いことからもそれはうかがえる。
老若男女を問わず、さまざまな方法で何かを発信している。それは、受け取り手がいることを想定していることがほとんどだろう。
会社員なら、仕事で認められたいというのも表現欲とも言えるそうだ。料理人なら料理も表現の手段で、それはある意味作品でもあるのだろう。芸術関連の仕事はまさに表現欲とイコールなのだろうな。
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あえて自分で黒星を作れるかどうかが、その人の器量につながる・・・
「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹藤田晋著より。
黒星、白星というとすぐに連想するのが、相撲のことだが、ビジネスでは14勝1敗や全勝をすることより、むしろ十勝五敗でずっと勝ち越すほうがうまくいくようだ。
いつでも抜群の成績で勝てるわけではない。自分ひとりの力ではどうにもならないことの方が多いかもしれない。結果的に大勝ちしたとしても、そのなかにも敗因は含まれているものらしい。
それを自覚してることが大事だったのだ。負けてもいいところでは、無理して勝とうとしないことも大切なことだった。ここで、大関魁皇のことを引き合いに出していた。
通算1047勝の大記録は、大関だったからこそ達成できたのだという。もし、横綱だったら、常にトップの成績を残さなければ引退せねばない。
勝ちすぎることは、ある意味敗因を自分でつくることでもあるという。ビジネスも全く同様らしい。いかに長く勝ち続けることができるか。それも実に難しいことだ。本物の実力がなければ・・・な。

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ビジネスは、記録や賞を目指すものではありません。
「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹藤田晋著より。
これは、前日触れた見城氏の文章に対して、藤田氏が述べていたことだった。確かに会社ではコンテストや社員どうし競わせて部門としての成果を期待するものだ。
そこで、トップをとったりしても、それがいつも連続するとは限らない。しかも、そんな記録はきわめて一時的なもので、後まで残るものでもない。
むしろ勝ちすぎることは危険が伴うとも語っていた。とくに中身(実力)が伴っていないのに、多大な期待をかけられる場合は、プレッシャーも大きいに違いない。
藤田氏の経験では大賞を受賞したベンチャー企業家は、ほとんど消えてしまったという。これは勝ち過ぎがいかに怖いかを表わしている。
一度成功した後、生き残ることは難しい。勝ちすぎないようなバランスをとれるかどうか、そこがポイントだな。作家や歌手や芸人も一発屋というのがあるが、同様だろう。もう一度思い出しておきたい。賞や記録は一時的なものだ、と。