余生を「余恵」として最大限に駆使したい。

「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。
それにしても、この本のタイトルは興味深いと思った次第。まず、普段あまりなじみのない「余生」につて、ウェブの辞書で引いてみると次のような説明があった。・・・『余生ー盛りの時期を過ぎた残りの生涯。残された人生。「静かに―を送る」「―を楽しむ」 』と。
つまり現役後のことを意味しているようだ。まだまだ働けると思ってはいても、ある時期がくれば、現役を辞めなければならなくなってしまう。そんな余生を「余恵」にできればいいのだろう。
森村氏は「どんなに歳をとっても気鋭、鋭角であれば、生きている限りチャレンジする対象を持つことができる」ともいう。それは「誉生」だとも表現している。
数年前に、氏の『誉生の証明』という小説を読んだことを思いだした。誉れを持った生き方とはどういうものかを物語にしていた。このタイトルだけ見てすぐに読んでみたいと思ったものだった。
年齢には関係なくチャレンジするところに価値があるということかもしれない。何もしなくても余生は過ごせるが、それだけではもったいないような気もする。

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老いの陣営に入っても老化はしないという意識を持っている。
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。
筆者によれば、「老後」は突然やってくるものだという。それは、ある年齢になったとたんに、それまで挑戦的であった人が安定感を求めるというように、気持ちが大きく変わっていったりするからだった。
自分は若い陣営に属していると、思っていた人が、老いを意識することがあるからだった。それは、体力の衰えも関係あるかもしれない。かつてはまったく意識しなくてもできたことが、できなくなったときなどだろうか。
森村氏自身、自分は若い陣営のメンバーだと思っていたら、会合で自分が最年長であることに気づいたという。そんな時、いつの間にか老いの陣営にいたことを自覚したようだ。
たしかにそんなことはよくありそうだ。しかし、それは年齢の順番であって、そこで老化してるかどうかはまた別問題だった。気持ちの問題が大きいようだ。老化はしないという意識こそ大事だったのだ。
そのためには、何もしないでいることは、老化を早めるとも言えそうだ。たとえ老いの陣営に入ったとしても、常に何らかの意識をもって行動またはチャレンジすることが大事なのだろうな・・・

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「未知の狩人」となって獲物を追う。
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。
森村氏の好きなフレーズに「未知数を永遠に追い求める」というのがあるそうだ。気持ちを若く保つと同時に、未知数ということも考える必要があるという。
ただ気が若いと言うだけでは青春とは言えないそうだ。そこに未知数というものがあることがポイントだった。筆者の場合その未知数とは、六十代にはじめた「写真俳句」だった。
つまり、今までなかった新しい価値観を生み出すということなのだろう。それまでは俳句と写真を合体することなど思いもよらなかったという。しかし、未知の狩人として、追求した結果それが収穫物となったようだ。
狩りの対象となる未知数は無限に残されているはずだというが、それを追い求めるにはかなりのエネルギーも必要なのだろう。しかし、それにチャレンジすることもまた、永遠の青春の可能性も無限にあるというがどうだろう。

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仕事の定年と人生の定年は別ものである。
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。
仕事の定年は便宜上の線引き、という表現は実にわかりやすい。仕事ができてもできなくても、ある時期がくれば次の世代と交代しなければならなくなる。
定年の境界線を越えたとしても、人生はまだまだ十分に残っている。むしろ自分は社会の構成分子として生きている自覚を持ち続けることが大切だという。
氏が強くアドバイスするのは、定年を迎えても「臨戦態勢」を失わないことが大事だということだった。この臨戦態勢とは実に積極的な表現に思える。それは生きていく緊張感というような意味だった。
「もういいだろう」と人生のレースを放棄してしまった人は老いるのも早いらしい。常に視野を広く持って、何かにチャレンジしたいものだがその対象を見つけるのも容易ではないだろう・・・な。

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