自分から何かを発信することは、その時点で恥をかくということ。

「逆転力を高める50の方法」中谷彰宏著より。
なんでもうまくなってから発表しようと思っていても、なかなかその気にはならないかもしれない。むしろ、ヘタなうちから人前に出た方が上達は早いという。つまり恥をかくということになる。
中谷氏はボールルームダンスを習っていて、3年ぐらいするとデモンストレーションダンスを踊るようだ。そのとき、人前で踊るのがまだ早いと言って断る人は謙虚ではあっても上手にはならないという。
絵画の場合も同じだろう。数年間描いていても人前に出して展覧会場にかけてみないと、そのよさはわからない。上手な人の中で、自分の作品がどれだけのものかは、並べてみればわかりやすい。
自分だけでの世界にいると井の中の蛙になってしまう。自分のヘタな部分を世間にさらすことは、勉強にもなるはず。そこで、さらに上達するための工夫ができるかどうか。恥をかくのは辛いが、やはり前に進むためにはいい薬になるのだろう。

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自己新記録を何回出したかが、その人の自信とモチベーションになる。
「逆転力を高める50の方法」中谷彰宏著より。
自己新記録は一気にあげてしまうと、長続きしないようだ。ここにおもしろい表現もあった。それは「人生のスポーツ新聞」というものだった。つまり、自己新記録を一気に縮めてしまうと、一回しか記事に載らないことになる。
しかし、チビチビ自己新記録を出していけば、何度も記事に載せてもらえるのだ。いきなり高い自己新記録を出すよりも、何度も長年にわたって出すほうが賢明なようだ。
かつて棒高跳びブブカ選手は、バーを一気に10センチあげられる自信はあっても、1センチづつあげていったそうだ。そうすれば、新記録として10回取りあげられる。もちろんそれは余裕があるからだろうが。
営業での場合を考えてみれば、いきなり大きな売上げができたとしても、翌年同じようにそれを上回れるかどうかはわからない。やはり、地道にコツコツと積み上げてきた売上げこそが価値があるのだろう。
何ごとも終盤になってからの、一気の逆転は難しい。日ごろからどれだけコツコツと1点または数ミリを積み重ねていけるかだろう。逆転の可能性はその先にしかないかも。
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「退屈力」・・・それがセカンドライフを豊かにするキーワードになる。
「退屈力」齋藤孝著より。
筆者がこの「退屈力」という言葉をつくった理由のひとつには、定年後を豊かに過ごすということも念頭になったからだという。確かに、現役時代を退けば、何をメインに過ごすかは重要なことになる。
何もしなくても、時間だけはどんどんと過ぎてしまう。人によっては、勤務していた時よりも充実した時間を過ごしているという人もいるようだが、それは多数派ではないだろう。
齋藤氏は社会人を対象にしたセミナーも行っているそうだ。そこでは、組織のトップにいた人も出席していて、仕事の話をしたがるプライドの高い人もいるようだ。確かに会社では尊敬されてはいただろうが、そこでは、むしろそういう人は浮いてしまうらしい。
むしろ主婦や働いていた女性のほうが、圧倒的に教養があるという。会社では要職に就いていた人でも、現役時代の仕事の話など誰も聞きたくはないだろう。美術館や映画、演劇など幅広く楽しめればいいのだろうが。
現役の頃は、さまざまなことで、結果を出すことが優先されていた。競争もあった。しかし、それがなくなった場合何をモチベーションに過ごせば有意義な時間を過ごせるのだろう。実りあるセカンドライフを過ごしたいもの。

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人間にとって、「美」を楽しめる時間をいうのは限られているのかもしれない。
「退屈力」齋藤孝著より。
これもまたセカンドライフについて書かれている部分にあったフレーズだ。齋藤氏は、定年後の一つの大きなテーマとして「美」といものをあげていた。いままで家族や子育て、生活、仕事のことが中心だったはず。
実用の世界では「美」はなくてもいいものだった。縁がなかったかもしれない。しかし、定年後は、それも意識していいのだろう。美しいものに心が惹かれるというのは自然なことだ。
美術館、演劇、コンサート、画廊巡り、草花を育てる、風景を楽しむ、読書三昧、テーマを持って旅をする、古典落語を聞く、スポーツを始めるなどは、男の場合、意外に普段の生活からはかけ離れていることかもしれない。
しかし、時間の余裕ができたときこそそれらを楽しめるのだろう。齋藤氏は「美」を味わう習慣を徐々につけていくことがいいともいう。そこにはまた別の種類の喜びの世界が横たわっているようだ。

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いままでとは別の価値観で、実りある退屈さを味わえる年齢になったのだと、ポジティブに考える・・・
「退屈力」齋藤孝著より。
これもまた、定年後のセカンドライフについて述べられていた部分にあったフレーズだ。筆者は『徒然草』の冒頭の部分を引用して、兼好法師も「退屈力」があったと考えていた。それは一日中、硯に向かって退屈を友にしていたからだった。
外からの刺激に頼らず、文章を書くことが充実した時間を過ごすことになっていたのだ。女性の場合、普段から「美」や「食」を中心に豊かな時間を過ごしているが、人にもよるが男性はそれに比べるとなかり劣っていそうだ。
日ごろから、音楽や楽器演奏に親しんでいる人はうらやましい。セカンドライフではそれを思う存分やれるからだ。地味な作業を積み重ねることで技をつかんで本物の感動を手にできるということが大切なようだ。
齋藤氏自身は、二十代を無給の学究生活に費やしていたそうだが、それを支えてくれたのは「退屈力」だったと振り返る。何の評価も対価もない中で、もがきながら、岩盤をコツコツと彫り続ける作業が今活躍できる齋藤氏の基礎になったのだ。