「快」とつながれば、脳は活性化し、スゴい力を発揮する。

「仕事ごころにスイッチを!」小阪祐司著より。
人の心にスイッチを入れる人間心理について触れていた。それは「快」を感じることをやっている時の、脳の状態と深い関係があった。
ここに例があった。ある高齢者のグループを二班に分けて、携帯メールの使い方を覚えてもらうというものだった。どれくらいの時間をかければ、覚えられるかという実験だった。
A班には携帯電話を渡して、手順を教えてこれこれこうやったらメールが送れますと教えたのだ。しかし、二日経っても、三日経っても覚えなかったという。
B班には、使い方の前に「この携帯電話でメールができるようになると、毎日お孫さんとメールでやり取りができますよ」と言ったのだ。すると、全員が約30分で覚えたのだ。
やはり「快」を感じると覚えようとする意識が向上するのだろう。仕事も同様に、常に「快」と結びつけられれば効率よくはかどるのだろうか。そうなれば理想的なのだが。

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「魂のごちそう」という報酬・・・
「仕事ごころにスイッチを!」小阪祐司著より。
実に聞き慣れない言葉だ。人はたんにお金のためだけに働いているのではなく、人から感謝されたときにこそ、「快」を感じるようだ。賃金をあげれば、モチベーションが上がるというわけではなかった。
賃金を上げれば不満は一時は減少させられても満足は与えられないようだ。もらって当然と思えば、そのモチベーションは長続きはしないだろう。
そこで筆者は、「魂のごちそう」という言葉を用いていた。それは、「自分の力で成し遂げたことが誰かのためにもなり、そのことで対して与えられたフィードバック」だという。
そういえば、社内での表彰制度よりも、むしろ自分が成し遂げたことでお客様本人からの感謝の言葉や素晴らしい触れ合いのほうが、次の仕事へのモチベーションアップになるような気もするな。
そう考えると、かつて流行った成果主義や能力給などでは、人は積極的に動かないのではないかとも感じられる。やはり、そこには人間的な触れ合いや、ねぎらいも必要なのだろう。

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実はコミュニケーション全体の中で、言語の占める割合は7%くらいしかない。
「仕事ごころにスイッチを!」小阪祐司著より。
もしこれが本当だとすれば、かなり低い数字だと感じる。いくら一生懸命に相手に通じるように話しても、90%以上のコミュニケーションが別の部分ならがっかりだ。
非言語のコミュニケーションとは、身振り、表情、声のトーン、抑揚の付け方などが考えられていた。振り返ってみれば、同じことを話すのに、自信がなさそうに聞きとりにくい声で話されれば、説得力もまったくないだろう。
ところが、あまり内容もないことでも、自信たっぷりの態度で話されれば、そこに何らかの意味があるようにも思えてしまうものだ。場合によっては言葉の部分で判断して、対して能力がないと思われても、実際はかなりの実力者であることもあるのだろうな。
たんに言語だけに頼っていると、ついつい身振りや態度などの非言語コミュニケーションの部分を忘れがちになってしまうものだ。話せばわかるはず、というのは必ずしも絶対ではないようだ。気をつけねばな・・・

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明らかに退屈に感じることを我慢するのが「退屈力」ではない。
「退屈力」齋藤孝著より。
そこで、筆者は次のように説明していた。それは「傍らから見れば退屈に見えるようなことの中に、当人が退屈を感じずに喜びを見出していく力」だった。
始めは退屈だと感じたものの中に、自分から意味を見出して、それを楽しんでしまえればしめたものだ。そうなれば、もう退屈とは感じなくなる。
ポイントは、外から何らかの刺激が与えられているというわけではないというところだ。新たな外部からの刺激がなくても長く楽しめるというのは理想的だとも思える。
一見単純そうなことの中にも、何らかの意味合いを見出して、深く追求していければ退屈とは無縁なものになるだろう。そういえば、私たちが子供の頃、(昭和30年代から40年代)には、ひとりでこもってするゲームなどはなかった。
むしろ、単純だとも思える遊びを仲間と繰り返し、やっていたものだが、楽しむことができた。飽きずに毎日、いろいろな遊びをしていたものだ。さらには、自然を相手に身近にある素材や道具を使って創造的な遊びもできた。

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「自由」の根底に「退屈力」がある。
「退屈力」齋藤孝著より。
まず、勉強について触れていた。勉強自体は基本的には退屈なもので、それを乗り越えて、初めて面白いという段階がくるのだという。確かに基礎の部分はあまり面白くもない。
むしろ、どうしてこんなものを覚えなければいけないのかと疑問だったものだ。まあ、それを通過したからこそ、応用の面白さも分かってきたのだろう。
武道やスポーツには型があって、その基本を粘り強く繰り返して、初めて「技」を習得できるのだった。これも長い退屈な時間を費やさねばならなかった。野球なら素振り、相撲ならシコを踏むことになる。
結果的にクリエイティブなことも、単調な日々の作業の連続から生まれるものだった。エジソンは何度も同じような失敗を繰り返していたからこそ発明ができたのだ。
モーツアルトの才能も、ピアノの地道な努力と厳しい練習があったからこそ、自由に弾けるようになったのだ。自由な発想や技術はやはり退屈力のたまものだということができるのだろうな。

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偉大な結果は、忍耐力の果てに存在している。
「退屈力」齋藤孝著より。
これも、前日触れた内容と重複しているかもしれないが、ふだん忘れがちなことでもあるだろう。ここに「伏龍鳳雛」というふだんはあまり聞き慣れない四字熟語があった。意味は、世間に知られず、雌伏している状態を指していた。
これから、龍や鳳凰になって世に出てゆくのだという気持ちを持って、その期間を耐えているということだ。筆者の齋藤氏自身、高校時代にこの四字熟語をプリントしたTシャツをクラスで作って着ていたという。
まさにその通りに実現しているのは驚きでもある。飛躍をするためには、誰にでも修業期間が必要なのだ。数年前にノーベル賞を受賞した小柴昌俊東大名誉教授は、気の遠くなりそうな研究の時間を費やしていたのだった。
そして、工夫を重ねて数多くの失敗のなかにも喜びを感じていたのだろう。その期間は膨大な退屈な時間を過ごしたとも思われる。オリンピックでの晴れの舞台で活躍する選手も、長年にわたる練習の成果を発揮していることになる。
体操選手も伸び悩むときは、基本にもどって倒立からすべてやりなおす人もいるらしい。それはすべての体操の基本が倒立だからだそうだ。できて当たり前のことをやることほど退屈なことはないだろうな。華やかに見えるのは結果だけか・・・