「高度刺激社会」に対し、「退屈力」を提言する。

「退屈力」齋藤孝著より。
実は、数年前にもこの本からいくつかのちょっと気になるフレーズを取りあげていた。今回再び読み返してみるとまた異なる個所がいくつか目についたので取り上げてみたい。
現代は「高度刺激社会」というのも頷ける。毎日インターネットを見れば世界中のニュースが瞬時に飛び込んでくるのがわかる。また子供や若者はコンピュータゲームに夢中になっている。新しいゲームが発売されるとそれを求めようと長蛇の列になる。
また、幼いころから子供たちは塾やお稽古ごとに通わされている。なんだかさまざまなことがスピードアップされてゆとりがなくなっているようにも感じられる。電車やバスの中ではスマートフォンやケータイでゲームに興じている人も多い。
実に退屈しなくてもいいようになっている時代だ。筆者は、しかしそれでいいのだろうか疑問を持っている。そこで「退屈力」というものを提言していたのだ。それは外からの強烈な刺激で脳を興奮させるのではなく、刺激の少ない状況の中でも満足できる能力という意味らしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「型」は、自分のコンディションを測る、不変の物差しになってくれる。
「退屈力」齋藤孝著より。
武道には型がつきものだ。それは退屈なものでもあるだろう。しかしそれは必須のものだった。しばしば「型」はあまりいいイメージではとらえられていない。
「型にはまった人間」は応用がきかない。「型通りの発想」はあまりかわりばえのしない、などの意味合いがある。むしろ「型破りな人物」のほうがもてはやされたりもする。それは「個性」とも考えられるのだろう。
しかし、「型」があるからこそ、自分の状態を把握しやすいこともある。もし、体調が良くないときは、その「型」通りにはいかないからだ。それによって、その日の体調のバロメーターが測れるような気もする。
個人的で話はややそれるかもしれないが、週に数回朝ラジオ体操を含め約15分間のエクササイズを行っている。しかし睡眠不足や疲れがとれていないときは、体が重かったり、体を動かす気にもならない。
体の調子がいいときは、ほとんど無意識のうちにエクササイズを始めている。そんな時は、まあまあの体調だと感じている次第。当然ながら飲み過ぎた翌朝は、やはり体が重い・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読書はスルメをかむのと似ている。
「退屈力」齋藤孝著より。
ここには藤子不二雄のことが書かれていた。地方に住んでいた頃、漫画雑誌が配本されてくると二人はむさぼるように何度も読んだという。そこから吸収し、学習したものは膨大なものだったらしい。
何度も同じ本を読むことで退屈さを忘れていたのだろう。しかし、その退屈が創造の原動力に変換していったのだ。そんな時間があったからこそその後の傑作につながっていったと齋藤氏は考えている。
スルメをかむように繰り返し読んで、想像を重ねていたことが、良かったのだ。もし、次々と新しい刺激があったらそううまく行ったかどうか。むしろ漫画への渇望感が、その後のアイデアの源泉になったともいえるらしい。
同じ本を読むことは刺激がすくないが、そこから得られることも多い。実は私も、この『退屈力』を再読するつもりはなかったが、たまたま数ページ読んでみたら、再び引きこまれてしまったのだ。これもスルメをかんでいるうちに味が染みでてくるのとよく似ている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・