その評価はあくまで「会社の」評価でしかない・・・

「砂漠から芽を出せ!」吉野敬介著より。
会社などの組織では、与えられ、決められた仕事をきっちりとしてそれなりの成果をあげられれば評価される。今の時代それさえも確実にクリアーすることは難しそうだが。
しかし、いくら決められたことを確実にやり遂げたからといって、それはあくまでその組織内での評価でしかない。それで満足感が得られるならいいが、私はそれだけでは面白くもないと思える。
本当のやりがいはそれにプラスアルファの部分にあるような気がしている。人とは違う何かがあるかにも関心がある。想像や創造性も大切にしたいとも思う。吉野氏は、自分で課題を見つけていくことが大事だとも述べていた。
それは“自分力”とも表現していた。要するに当たり前+アルファの部分にこそ、その人間的魅力があるとも考えているようだ。そんな人間にはオリジナリティを感じるものだな。

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これからの時代、すでにもう、砂漠から芽を出すような生き方が求められている時代・・・
「砂漠から芽を出せ!」吉野敬介著より。
いきないりこの本のテーマのようなフレーズが気になった次第。この一冊の中には吉野氏の熱いメッセージがいくつもちりばめられている。この本のサブタイトルは“どんな逆境でも絶対折れない自分をつくる50の言葉”ともあった。
筆者の仕事は予備校の古文講師だが、それはフリーターのようなものだとも語っていた。人気を含む実力こそが重要だった。組織からの保障もなかったからだ。プロ野球の世界と同様結果だけが問われる。
ある意味講師は砂漠に播かれた一粒の種のようなものだともいうが、それが実感なのだろう。土地だけは用意されるものの、水も肥料もない、しかも競争が激しい世界だ。結局自力がなければ芽を出すことができない。
吉野氏は私塾も経営しているが、完全自由業ですべて自分の責任でやらねばならないから、かなり過酷なようだ。そこではいかに生徒を引きつける授業ができるかが問われる。
毎日が勝負だと実感しているようだ。古文の勉強も毎日、半分は趣味とはいうが、受験生同様に地道に続けているという。それは常に人気を維持して、いい授業をするためなのだろう。
まあ会社も過去のいい時代のように、年功序列ではなく成果主義になっている。またいくら大企業でも数年後まで安心して勤務できる保証もない。会社員も砂漠から芽を出せるような心構えで実力をつけ、仕事にのぞむことが必要なのだろうな。

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目に見えないものこそが、大切な財産・・・
「砂漠から芽を出せ!」吉野敬介著より。
短いがなんだか深い言葉に思えた次第。以前何かの本では、本当に大事なものは言葉に表せないというようなことを読んだことを思い出した。それともやや似ている。
とかく財産と言えば、目に見えるものと思いがちだ。たとえば、吉野は成功して、高級時計のロレックスやベンツにも乗り、数億円の一軒屋に住んでいる。すごいとも思えるが、それは財産とは考えていなかった。
すでに手に入れたものではなく、それらを持っていても恥ずかしくない生活レベルを自信を持って維持することに価値を置いていたのだ。むしろ一番の財産は、大学受験をした時、四か月一生懸命勉強したことだという。
受験勉強では1.5だった視力が0.1にまで落ちてしまったそうだ。しかしそれと引き換えに大きな一生の財産を手にしたと感じていた。氏の現在の成功の基礎となったことこそ財産だったのだ。
自分には、目には見えないが財産と思えるようなものをもっているだろうか、とふと振り返ってしまった。平安に暮らせている日々だろうか。今までの仕事を通じて多くの人と知り合いになれたことだろうか・・・

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努力するための時間は、誰もが平等に持っている。
「砂漠から芽を出せ!」吉野敬介著より。
たしかにどんな人にも時間だけは平等に過ぎていく。その時間の過ごし方、時には努力の仕方で、その後の人生や結果も大きく変わってしまうということのようだ。
ある意味チャンスを活かせたかどうかとも言える。またここには“努力の天才になる”というような言葉もあった。人より余計に努力することができるかどうかも大事なのだろう。
まずはどんなことを目標にするかが定まっていることが前提条件となってくる。そして努力の結果見えてくるものがあるのだろう。そのことで自分自身が変わってくることも考えられる。
とりあえずどんな誘惑にも言い訳にも負けずに、強い意志をもってやれるかどうか。結局いくら才能があっても努力がなければその先には行けないか。今満足してない自分を変えるのも努力しかないか・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・自分自身にとって一種の過去のデータベースになる。
「芸術脳」茂木健一郎著より。
ここでは評論家の天野祐吉さんとの対談で、茂木さんが語っていたフレーズだった。このお二人はブログをやっているという。その自身のブログが茂木さんには、データベースとして利用できているという。
ブログの日記にはあった人の名前をフルネームで書いておくと、後日その人の名前をグーグルで検索すると自分の日記が引っかかってくるという。パブリックではあると同時にプライベートメディアとしても使っていたのだ。
また一方、天野さんは新しモノ好きだから、70歳を過ぎてからブログを始めたという。毎日いろいろなことを思いつくので、それらを忘れないためにブログに書いていた。
お二人とも公に向けたメディアでありながら、「私」の目的も同時に存在していたということになる。ブログの場合は、書くというより会話するという感覚らしい。たしかにキーボードで書く場合はお気楽な感じもするな。
そうそう、データベースといえば、私も過去に読んだ本のことなど検索する場合に、ブログに残しておくと思いだしやすい。過去に読んだ本かどうか忘れてしまうことが多いが、検索すると確認できるので便利だ。

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基本的にはユーモアのない批評はダメだと思う。
「芸術脳」茂木健一郎著より。
(前日のつづき)
これは天野さんの発言だった。新聞で天野さんの批評を読むと、へ〜こんな見方があるのかと気づかされる。しかも、どことなくユーモアが感じられ、納得してしまう。
そして、ユーモアのない批評というのは、往々にして批判になってしうまい攻撃的な言葉になりがちだという。読む方もたんに批判だけの文章を読んでも心地よくない。
しかし、天野さんの批評は楽しめる。まあこれは天野さんだからこそ書けるのかもしれないが。批評とはなにかを考えることは、同時にユーモアとはなにかを考えることだそうだ。実に奥が深い。
朝日新聞では長年にわたって、天野さんは「CM天気図」というコラムを連載している。それは読者のためにというより、コマーシャルを作っている人たちに読んでもらいたいと思って書いていると語っていた。
そういわれれば、時々このコラムを読むことがあるが、なんだかCM製作者に向かって、ホンネを書いているような気もすることがある。ここはこうしたほうがもっといいんじゃないだろうか、というような意見も書いていたな。それもユーモアを交えながら。
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