良きライバルは得ようと思って得られるものではない。

「無趣味のすすめ」村上龍著より。
ここでのタイトルは“ライバルという他者”となっていた。ライバルといって分かりやすいのはスポーツの世界かもしれない。五輪ではその種目の代表に選ばれるためには何人もの力が拮抗したライバルに勝たねば、その願いはかなわない。
またその国の代表に選ばれても、まら世界には強敵と言われるライバルの存在がある。しかし、ライバルと言われるほどの相手は、当然ながらトップレベルにいるからこそ出会えるということにもなる。
メジャーリーグで先発のローテーションの枠を競うとなれば、その投手たちは2A、3Aのレベルの選手からはかけ離れてトップにいることになる。もともと評価が低ければたんなるどんぐりの背比べに過ぎないのだろう。
いずにしても、あいつにだけは負けたくないなどと、他人のことを気にするよりもむしろ、自分自身を充実させ、仕事をしっかりやることのほうが、はるかに重要だと村上氏は指摘していた。まさにその通りだろうなぁ・・・

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イデアは「組み合わせ」であって、発見などではない。
「無趣味のすすめ」村上龍著より。
これは、“企画の立て方”というタイトルの部分にあったフレーズだった。その企画の前提は「アイデア」でもあった。アイデアがなければ優れた企画などできない。
そのアイデアは発見というものではなく、「組み合わせ」によって出来上がるものだった。魅力的、新鮮味のある組み合わせをどれだけ思いつけるかが勝負のようだ。
それは今までどれだけ素材となるものを記憶しているか、また新たな資料を得られたかにも関係している。そう考えると単なる思いつきがアイデアだなどとは言えそうもない。
発想力も筋肉のように鍛え続けなければ、だめなのだろう。そのためには誰よりも長い時間集中して考え抜くことのようだ。しかし、考えている間にはアイデアは生まれない。むしろ、そこから離れた時にふと思い浮かぶことがある。
タイトルとはややずれてしまうが、たとえば、よく知っているはずの人の名前や地名などいくら思い出そうとしても、すぐには出てこないことがある。ところが翌日になるとすんなりと思いだせたりする。それとも似ていそうだ。

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失敗を糧として成功する人は本当にごくわずか・・・
「無趣味のすすめ」村上龍著より。
しばしば、失敗から学んだとか、失敗のなかに成功のヒントがある、という言葉を聞いたり目にしたりすることがある。それは、失敗というより単なるミスかもしれない。
同じような失敗を何度も繰り返したりするのは、やはり性格的にも問題があるのかもしれない。そんな人はむしろだらしないといわれそうだ。また失敗が日常化してしまうのも恐ろしい。時にはダメ人間の烙印を押されていしまうだろう。
失敗しても成功したという人は、絶好調のときに失敗していたりするようだ、そうすればリカバリーできるからだろう。実際はいつまでたっても成功できない人のほうが圧倒的なようだ。
失敗しても何かを得ることができるのは、挑戦する価値があることに全力で取り組んだが、知識、経験、情報が不足していたという場合だけだと村上氏は述べていた。むしろ普通は挑戦すべきものに出会わないことのほうが多いらしい。
そこで、前提となる条件は「飢え」だという。(挑戦することにん価値がある何かと)出会うことに飢えていなければ、それにまったく気づかないままずれ違ってしまうだろうということだった。

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個人的に「マザー・テレサが話すような英語」のような文章を書きたい・・・
「無趣味のすすめ」村上龍著より。
これはいったいどういう意味だろう。アルバニア人であるマザー・テレサの英語はたどたどしく現代的な言い回しも流行の常套句もなかったが、正確で英語圏の人々にも好感が持たれていたそうだ。
村上氏がかつて映画を撮った時、海外ロケだったので、日本の女優に全編英語で演技をさせたのだった。その後FMラジオの番組に出た時、若い男のパーソナリティー、その英語が「子どもみたいな英語」でしたね、と評されたそうだ。
そして、ネイティブのを真似た発音で自慢そうに披露したという。しかし、村上氏はその発音は正確ではないとその若い男に言ったという。むしろ映画の撮影前に、女優とたどたどしいが正確な英語を話すようにしようと、相談して決めていたのだった。
そこで真似たりなぞったりすることは、情報を正確に伝える力にはなりようがないと考えていた。かっこよさよりも正確さがまず基本のだろう。村上氏はたどたどしくても、伝えたいことが正確に伝わる文章を目指しているそうだ。