機械文明の恩恵に浴すると同時に、「便奴」になってしまっている。

「老いる覚悟」森村誠一著より。
ここでの小タイトルは“便利な道具がダメ老人を増やしている”となっていた。それらの道具は、携帯電話、パソコン、デジカメだという。フレーズの中で“便奴”というのは、便利性の奴隷という意味の造語だった。
しかし、本当にそうだろうかとやや疑問を持っている。むしろ、私には携帯電話をはじめデジタル機器を自由に扱えるのは老人としてすごいことにさえ思えるが。デジカメを手にして、それを道具として趣味を発展させられれば素晴らしいことにさえ思えてくる。
逆に奴隷になっているのは、若者の方ではないだろうか。電車やバスの中ではケータイやデジタルゲーム機器に熱中している姿を毎日のように見かける。単なる時間つぶしにしか思えない。まるでデジタル中毒だ。
もし、ネットを通じての情報入手手段がないと不安を感じるのは若者の方に多そうだ。自分はもう若くはないがやはり、ケータイが身近にないと不安を感じることもある。そんなものがなくても平気で生きていけるのが、老人の強さにさえ思える・・・な。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
過去にばかり想いを馳せる人は、心身ともに老けていく。
「老いる覚悟」森村誠一著より。
確かに過ぎ去った過去を思い出しても、新しい経験は得られない。むしろそうしている間に老化のスピードは増していくのだろう。若さを保とうと思えば、新しい経験をすることのほうが大事だった。
森村氏は、「老いても未知の狩人ー“無限の可能性の狩人”でありたい」、と述べている。これが森村氏の覚悟なのだ。自分から新しい経験を求めることによって、無限の可能性があるということのようだ。自分の可能性に対して狩りをするというのは、実に面白い表現でもあるな。
ここで、一つ面白いエピソードがあった。かなり前に活躍していた、名古屋の百歳の双子姉妹、きんさんぎんさんのことだった。あるとき、二人がマスコミに取り上げられてから、急に若返ったという。
それは可能性に気がついたからだったようだ。二人のユーモラスな会話や元気だった姿が思いだされる。たとえ体力は衰えても、可能性を求めている限りは、、心までは老けこまないということだった。
現在99歳で今年の秋に100歳になる日野原重明先生は、実に知的なエッセイを毎週朝日新聞の土曜版に書き続けている。文面からはまったく年齢を感じさせない。まだまだスケジュールは詰まっているようだ。驚くばかり!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
成果主義の会社が必ずしも景気がいいとは限らない。
「老いる覚悟」森村誠一著より。
森村氏の主張は、日本のデフレは、成果主義で市場が冷え切ってしまったのが原因だという。どんな大会社でも、永遠に安定経営ができるとは言えない。先行きは不透明な時代だ。
ここでの小タイトルは、“日本はいつからゆとりのない会社や組織が増えたのか”だった。それは機械文明が発展してからのようだった。何でも効率が優先されて、成果主義が中心になってしまったからだろう。
少し前までは、人材として扱われていた社員が、組織を構成するネジになってしまっていると表現されていた。それまでは歯車の一つともいわれた。歯車は一つ欠けても動かなくなるが、ネジは一本や二本欠けても動くという意味だ。
それらは結局機械全体にはほとんど影響しない。ネジはいつでもすげ替えられるということでもあった。実に厳しい表現でもあるが、これが現実なのだろう。会社は利益追求、効率中心、もう体温と余裕のあった時代には戻らない。
中国は成果主義が中心が支配する社会になっているようだ。どんな努力をしたかなどは関係がない、何ができたかだけが評価される。貧富の格差はますます拡大していく。森村氏は日本はいま成果主義の再検証をするべきと語っていた。もっとも、それを考える(再検証する)余裕すらもないかぁ・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平凡の中にドラマを自発的に求めるのが覚悟というもの。
「老いる覚悟」森村誠一著より。
この本の最後、“むすびの言葉”の部分で、出てきた言葉が老いる覚悟というもののようだ。そして覚悟なき人生は、時間に流されているということだった。
たしかに何も考えなくても時間はどんどん流され空費されていってしまう。そこで、それを捉えるために、昨日とは異なる今日を過ごすという心構えが必要なのだ。
平凡ななかにも、そんな覚悟が人生に活気と彩りを与えてくれるようだ。人間は生きている限り、常に途上だということでもあった。だからこそ可能性の狩人を意識すべきなのだった。
青春は未知数が多いが、歳をとるにしたがって、未知数が減ってしまう。しかし、それでも未来の予測は不可能だ。最後に、筆者の俳句があった。「霧立つや昨日を拒む今朝があり」、これが老いに対する覚悟なのだろう。