「人の偉大さは人に与える影響力の総量で決まる」

「遅咲き偉人伝」久恒啓一著より。
この本のサブタイトルは“人生後半に輝いた日本人”となっている。これをみていったいどんな人が取り上げられているのだろうかと興味深かった。
そして、偉人というのはどういう人を言うのかが、前書きの部分で触れられていた。それが上記フレーズだった。さらにその中にも次のようにいくつかの段階があった。
筆者は次のように言っている。「広く影響を与える人は偉大な人だ。そして広く深く影響を与える人は、もっと偉大な人だ。さらに広く深く、そして長く影響を与える人は最も偉大な人である」と。
まずは、目次を見るとその偉大な人がいくつかの型に分類されていた。「多彩型」、「一筋型」、「脱皮型」、「二足型」というふうに。偉大な人にはいろいろな大成した生き方があるものだ。

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縁と運が重なり合ってチャンスが巡る。
「遅咲き偉人伝」久恒啓一著より。
これは松本清張が述懐した言葉だったらしい。若い時に志望していた小説家になったのは、偶然で努力というよりむしろ大半は運らしい。
しかし、その運が巡ってきた時に死に物狂いで仕事をしたからこそ、後の活躍につながったのだろう。ひたすら努力を重ねる人生だったようだ。
ワンフレーズでの紹介では「幅の広さと奥の深さと、圧倒的な仕事量で時代に屹立した小説家」とあった。今もなお多くの原作のドラマはテレビ放映されていることからも頷ける。
ここからはやや話がそれるが、「多彩型」の代表として、松本清張のほかには、森繁久弥与謝野晶子遠藤周作武者小路実篤などが取り上げられていた。
目次の部分では与謝野晶子は「歌人から始まったそのエネルギーで時代を牽引した近代最高の女性」と紹介されていた。
63年間の人生で実に幅広く活躍して、当時の社会に大きな影響を与えていたようだ。しかも作品を発表しながらも11回出産し11人の子どもを育てていたというからそのエネルギーにも驚かされる。

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ライフという言葉には、人生という意味と生活という意味がある。
「遅咲き偉人伝」久恒啓一著より。
これは遠藤周作について触れられている部分で目にしたフレーズだった。当たり前だと言えば、それまでだがふだん意外にそれを意識することもなかった。
しかし、遠藤周作はこの二つのライフを意識して使い分けていたのだった。それは、小説でも分かるように信仰を巡る深刻な悩みを描く小説を書き続ける作家とぐうたらで愉快なエピソードで笑わせる狐狸庵山人というキャラクターを持っていたからだ。
学生時代にはよく遠藤周作のユーモア小説を読んだものだった。一方で実にまじめに社会の問題を取り扱ったエッセイなども書いている。
つい先日は最晩年の「最後の花時計」というエッセイを買って読んだが、生と死についてなど実に深刻な問題や社会でおきる事件などについて意見が書かれていた。
もう20年以上前に、地元の文化会館で講演会があったときに聴きに行ったことがあったが、話の内容はほどんど忘れてしまった。しかし、とても感じがよくサービス精神を感じたものだった。

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創作の喜びは、長い苦しみに勝る。
「遅咲き偉人伝」久恒啓一著より。
これは野上弥生子の言葉だった。分類によると「一筋型」に入っている。つまり小説という仕事をつねに中心に生きてきたのだ。
しかも興味深いのは世界に類例のない長期の現役活動を継続した小説家だったのだ。1885年に生まれ1985年に死去している。あと1か月で百歳だったという。
驚くことは、実に勉強が小説だけでなく語学にまで及んでいたことだ。74歳でもラジオの英会話を欠かさず聞いていたという。また79歳からフランス語とドイツ語、81歳ではスペイン語まで聞き始めていた。
つねに高い目標と毎日の地道な仕事の連続、執念ともいうべきものがあったのだろう。そして、晩年には文化勲章を受章していた。それだけ文化に与えた影響力が大きかった証拠だ。
ロングセラー作家のため、晩年になるほど年収は増え、年金以外に年収は1000万円になっていたそうだ。90歳を過ぎても周りに住む3人の大学教授の息子たちよりも多かったというから驚き!

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超高齢になってもやるべき仕事があるということは幸せ・・・
「遅咲き偉人伝」久恒啓一著より。
一筋型の人物としては、野上弥生子のほかに牧野富太郎大山康晴本居宣長、、石井桃子平櫛田中などが取り上げられていた。
その中で、平櫛田中(でんちゅう)という名前はユニークだ。彼は107歳まで長生きして活躍した日本彫刻家だった。「六十、七十は洟垂れ小僧、男盛りは百から百から」という言葉を残している。
実際、百歳を超えても作品を作り続けていたのだ。代表作は「鏡獅子」で国立劇場のロビーに展示されているという。全長2メートルの作品で六代目尾上菊五郎の舞の姿で、完成までに二十年以上の歳月を費やしていた。その時田中は80歳を超えて、菊五郎は他界していた。
この作品を政府が田中に二億円で譲ってくれという申し出があったが断っている。永久貸与という形で寄付をしていた。現在の価値で六十億円だそうだ。
いずれにしても超高齢まで元気でいることさえ大変なのに、創作を続けられるというエネルギーにも驚かされる。

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「僕は昭和の啄木になるよ」と少年時代から言っていた・・・
「遅咲き偉人伝」久恒啓一著より。
寺山修司は若い頃そう語っていたようだ。つまり歌人を志していたのだった。また若者に短い言葉でメッセージを残しているが、それはコピーライターのようでもある。
今もなお書店には寺山の本がたくさん並んでいる。それだけ影響力があるのだろう。さまざまな顔を持っていた。詩人、歌人、劇作家、小説家、写真家、映画監督、戯曲作家・・・といろいろな表現者だった。
30歳過ぎてから毎年10冊ほどの本を世に出しつづけていた。久恒氏は「年齢を重ねるほど、より華麗な大輪の花を咲かせた早世の天才表現者」と解説している。
1935年(昭和10年)生まれで1983年(昭和58年)に死去している。何度かテレビでその姿を観た覚えがある。もっと長生きできればさらに幅広い活動をしたことだろう。
彼は脱皮型に分類されていた。そのほかには、徳富蘇峰、川田龍吉が取り上げれれていた。

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軍人としての人生、文学者としての名声。
「遅咲き偉人伝」久恒啓一著より。
もうこれだけで誰のことか分かる人も多いことだろう。「二足型」という人生を歩んだ人の代表に森鴎外がいる。「昼は陸軍軍医、夜は小説家としての両輪で生き切った明治の文豪」と久恒さんは書いている。
そのほかには、新田次郎宮脇俊三、村野四郎、高村光太郎などが挙げられていた。二足のわらじを長年にわたってはき続けるのは並大抵なことではないだろう。
しかも、どちらも世間では相当の評価を受けなければならないからだ。もともとの能力の上に、努力を重ねた結果だろう。好きでなければ続かない。
また好きなことを究めたからこそ世間で広く認められたのだ。趣味だと言っても、軽いものではない。もうその分野では第一人者といわれるほどの趣味だったに違いない。
凡人にはもともとの仕事さえ満足にできないのに、とても二足のわらじなんて考えらない・・・な。せいぜいお気軽な時間つぶしの趣味程度かも。