学校とは、子どもの個性をすっかり剥ぎとってしまうシステムである。

「これならわかる!ドラッカー思考」枝川公一著より。
そんな考え方もあったのかと気づかせられる。確かに教室という部屋に詰め込まれ、同じことを同じように教えられる。しかもそこでは強制的に覚えこませられるのだ。
知識をきちんと覚えこんだかどうかは、試験で判定される。一定の時間内に、できるだけ多くの正解を得られたものだけが評価される。覚えるのが得意でない子どもにはつらい。
学校時代が終わり、試験がなくなるとほっとしたものだった。まあ社会生活を普通に営むためには、ある程度の教育は当然ながら必要だろうが、あまりにも多くのものを詰め込まされるのも問題だろう。
義務教育の9年間やその後の学生生活には膨大な時間を費やすことになる。自分のペースで勉強できるならいいがなかなかそうはいかない。結局、一律で詰め込み教育をされているうちに個性がなくなってきてしまうのだろうな。

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メモという補助手段を、ぴったりの方法で駆使しながら、学んでいった。
「これならわかる!ドラッカー思考」枝川公一著より。
ここでは、ふたりの人物について、どうやって学んだかについて述べられていた。まったく時代も、仕事も異なる二人だった。
彼らは、ベートーヴェンとアルフレッド・スローン(ゼネラル・モーターズを世界一のクルマメーカーにしたビジネスマン)だった。
メモのとり方と、役立てる仕方に特徴があった。まず、ベートーヴェンは断片的な楽譜を大量に残しているが、作曲するときにはこれらは見なかったという。それは忘れないためのメモだったようだ。これがベートーヴェンの学習法だった。
一方のスローンは会議中にメモをとらず、自分の部屋にもどってから、出席者の誰かに手紙を書いたという。その手紙のなかで、会議中のことを整理し問題点を指摘していたのだった。
それだけしっかりと会議中に問題意識をもって頭に入れることができたのだろう。頭に残っていなければ手紙など書けないだろう。
いくら読んだり聞いたりしても、やはりどこかにメモしておかないとあと後になって、なんの手がかりがつかめないのはつらい。自分なりのメモは学ぶための第一歩なのだろうな。

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すべての知識と情報は、手の届くところにあるような錯覚が生まれる。

「これならわかる!ドラッカー思考」枝川公一著より。
コンピューターは今や仕事の武器になっている。筆者は、自分の頭のなかと、コンピュータの頭との往復だけで、ほとんどの仕事が済んでしまうため、それは仕事が局限されてしまうから危険なことだとも指摘している。
なんでもインターネットを通じれば欲しい情報のかなりの部分が比較的容易に手に入る。それはしばしば自己満足に過ぎないことも多い。もうそれで十分だと思ってしまいがちになってしまう。
ある意味それは自分の世界を狭くしてしまうことでもあった。学ぶということを考えるなら、さらに広い世界を見るべきだったのだ。
ここでの内容とはやや異なるが、ネットによってあまりにも簡単に知識や情報が手に入ると、その価値の低さにも気づかないことも考えられる。誰もが同じような情報が手に入るということは、もうそれだけであまり価値もないのだろう。
自分だけが知りえた、ということではなくて、一応自分も一般的なことを知ることができたという程度のものだろう。知識の場合は、後まで残るかも知れないが、情報はすぐに陳腐化してしまうだろう。

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多くの労働者の場合、中年初期ですでに仕事にあきてくる傾向が見られる。
「これならわかる!ドラッカー思考」枝川公一著より。
なんだか、自分のことを言われるいるような気になってしまったワンフレーズだった。振り返れば、仕事にノッていたのは30代の半ばから40半ばあたりだろうか。
この直前には、「個々の職務がいかに満足に足るものであっても」とあった。つまり中年になれば、仕事への意欲、情熱が失われていくものだということのようだ。
だから、いかにモチベーションを保ってやっていくかは、個人の創意工夫によるのではないだろうか。仕事にあきるという状況を自力で乗り越えるのは大変なことだ。
つねにやりがいを感じながら仕事に打ち込めればいいのだろうが、なかなか自分だけのペースで仕事は進められない。繰り返し同じようなこともしなければならないし。何か磨くべき技術でもあればいいのだろうが。

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