理想的な組織とは、会議のない組織である。

「図解で身につく!ドラッカーの理論」久恒啓一著より。
まず、時間のムダ使いについて触れられていた。そのなかで、ドラッカーはその要因として、外部から邪魔される場合と、自分自身でムダに使っている場合の2種類があるという。これは事実だろう。
自分自身を振り返ってみれば、自分でもあまり時間を有効活用しているとは思えない。なんであんなことに時間を費やしてしまったのだろうと悔やまれることもしばしばだ。
しかし、また残念なことは、人や組織など外的な要因によって時間を奪われるのもつらい。とくに会議に費やす時間はかなり無駄なことも多いと思える。
だから、ドラッカーは会議をすることは、原則ではなく例外であるべきだと述べている。別に会議という大げさなものでなくても、ミーティングでも同じことだ。時間のムダには違いない。
それが本当に会議をするに値することかどうか分からないのに、あらかじめ事前に会議の日程が組み込まれていることは、ちょっとおかしいのかもしれないと思えてくる。原則は会議がないものとしたほうが健全なのかも・・・

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安全策ばかりとっていたら、失敗もないかわりに成功の果実も得られない・・・
「図解で身につく!ドラッカーの理論」久恒啓一著より。
これはいろいろな場面でも言えることだが、ここでは仕事の上での心構えだった。仕事で意思決定をする場合に、つねに十分なデータが揃っているわけでもない。
しかし、仕事には時間が当然ながら期限があり、場合によっては見切り発車せざるを得ない場合も出てくる。そんな時、成功確率が六分、七分あると思えば前向きに進むことも大切だということだった。
組織の役職者や経営者は責任を回避しようと思えば、できるだろうがそれをやっている限りは前には進まない。安全策より時には「迷ったらやる」というリスクテイクも経営者には必要そうだ。
参考のためにベンチャーの経営者の言葉があった。パソナ南部靖之さんは「迷ったらやる」で、ソフトバンク孫正義さんは「迷わないでやる」だそうだ。もし自分だったら・・・?

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組織に寄りかかるのではなく、組織を自己実現の有効な「手段」として活用すべき。
「図解で身につく!ドラッカーの理論」久恒啓一著より。
実に前向きな考え方だ。筆者の久恒さんは、組織や肩書の存在を全面否定するのは短絡的ではないだろうかという。
できるなら、利用できるものは利用したほうがいいのかもしれない。まったく知名度のない会社より、世間的にも信用がある会社ならそれだけでも仕事がしやすくなるだろう。能力を超えた仕事もできそうだ。これは自身の経験からもそう言っている。
大企業であれば、それなりのメリットも大きい。だから、利用できるならそれを利用するべきだという考え方だ。仕事を通じて個人の能力を伸ばすと考えればかなり前向きとも思える。
自己実現できるかどうかは別としても、今いる会社などの組織を通じて、自分の可能性を広げることはいいことだろう。一人では決して気づかなかったことできなかったにも、組織を通じて自分の新しい能力に気づくこともあるはず。

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いい本をつくるための秘訣って・・・
「装丁問答」長友啓典著より。
まず、この本のタイトルが面白いので読み始めてみた次第。筆者は第一線で活躍するグラフィックデザイナーで装丁家としてもキャリアは長い。
そんな筆者が編集者に「いい本をつくるための秘訣ってありますか」と聞かれていた。ここでは本の内容ではなく、デザインのことだろう。
長友さんは、まず自分自身が楽しむことだという。確かにそれは必要なことだろうと同感する。しかし、そのためには日々地道な努力があってはじめてその気持ちになれるのだろう。
ただ理由もなく楽しいだけじゃ何も期待できない。「生みの苦しみを乗り越えてきて、自分自身が納得して作ったものほど、多くの人に共感してもらえると思う。・・・」とも語る。
そんな前提があって楽しめたり、面白がってやれた時の仕事のほうが、いい作品になっているとも述懐している。仕事はいかに楽しんでするか・・・。どんな仕事にも言えそうだ。

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白いキャンバスを前にして、描くべき何かをもっていることほど幸せなことはない。
「装丁問答」長友啓典著より。
これはデザイナーの石岡瑛子さんの言葉だった。この言葉は「私デザイン」という本を長友さんが読んだ時のものを紹介していた部分にあったもの。
確かに白いキャンバスの前にして、何も描くものが見つからなかったら苦しいだろう。生みの苦しみというやつかもしれない。ところが、既に何をどう描くかが決まっていれば楽しいに違いない。
ここでのキャンバスは比喩とし考えれば、文章も同じことだろう。白い原稿用紙やノートページを前にして、何か文字で埋めなくてはならないときに具体て的なこのがなければ、ペンも進まない。
このブログもまったく同じことが言える。日記のように毎日の出来事を書き続けられるのはある程度書くべきものが決まっているからだろう。上手い下手は別として、何でも表現できる手段があって、それができればありがたいもの。

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