日本のプロ野球に入団してくる選手に、球団選択の自由はない。

朝日新聞」2010.12.28付けより。
スポーツ面のコラムで西村欣也氏が述べていたこと。改めてそうだったのかと気づかされる。とくに“球団選択の自由がない”のは、ドラフト制度に従わねばならないからだ。ところが、そのドラフト破りを巨人がしているともいえると語っていた。
それは、巨人が記者会見を開いて、すでに2011年度のドラフト1位を早々と発表したからだった。東海大の菅野投手は原監督の甥にあたる。ほかの球団はこの選手が欲しくても、1位指名できるだろうか。そんなことを考えれば、単独指名の可能性も強くなる。
2010年度のドラフトでも、中大の沢村投手の単独指名に成功していた。それは、一部の報道に「希望球団以外なら大リーグ入り」という情報が流されたのが決め手らしい。ここでのタイトルは「誰のためのドラフトか」となっていた。
ドラフト破りとなれば、思いだされるのは江川卓の「空白の一日」があった。またその後早稲田大学進学を表明していた桑田真澄を単独一位指名し入団させたこともまだ記憶に残っている。
西村氏は、他球団はたとえ巨人が牽制球を投げたとしても、本当に欲しい選手を敢然と指名するべきだと主張する。確かにドラフトをきっちりやれば、優れた選手が各球団に分散される。
今年のパリーグで、斉藤祐樹投手(日ハム)と田中将大投手の投げあいが実現すれば別にどちらかチームのファンでなくても楽しみでもあるだろう。また5年前の甲子園の熱戦を思い出したいものだな。

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授業でドラッカーは唯一の教材として自分の日本画のコレクションを使った。
「知の巨人ドラッカー自伝」ピーター・F・ドラッカー著より。
一般にドラッカーといえば、マネジメントがすぐに頭に思い浮かぶが、日本画についてもかなりの勉強をしていたのだ。ドラッカーが62歳の時ニューヨークからロサンゼルス郊外の都市に引っ越していた。
年をとってからは、寒さが厳しいニューヨークより、温暖な気候の南カリフォルニアはよかったようだ。そこにあるクレアモント大学で新しいことを始めようと思って、5年間日本画について教えたのだった。
この授業はものすごく面白かったと答えている。自分のコレクションから数点を選んで、学生と観察して意見を交換し合ったという。とにかく実物を観察し、学習することが最も重要だと考えていた。
つまり、時代背景や絵画の作者のことなどは本を読めばわかることだから、自身から話すことはなかったという。やはり、絵画は実物を目の前にして鑑賞するのが最も理解でき印象に残るだろう。
このように自分の好きなテーマを選んで自由に教えることは、学生にとってはまた興味深かったようだ。それまで日本画に縁がなかった学生たちも目の色を変えて授業に参加するようになったそうだ。教える側が楽しんだからこそ、それが学生にも伝わったということだろう。

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いち早く日本の可能性を見抜いた欧米人・・・
「知の巨人ドラッカー自伝」ピーター・F・ドラッカー著より。
やや前後するが、ドラッカー日本画“中毒”になったのは、1930年代半ばのロンドン時代だった。英国初の日本絵画展を見た時がその初めだった。
そして、日本訪問を喜んで引き受けたのは、日本画を本場で見たかったからだったと述懐している。ところが、絵画だけでなく日本という国にも夢中になってしまったのだ。
それは、ビジョンや勇気といった資質を備えた経営者に出会ったからだった。そこから、日本に大きな潜在力を感じたそうだ。その後「日本は経済大国になる」という内容の論文も書いていた。しかし高度経済成長に入る前のその頃、誰も日本が経済大国になるとは信じてくれなったという。
だからこそ、ドラッカー自身はいち早く日本の可能性を見抜いた欧米人だと自負している。しかも、日本ではたっぷりと日本画を鑑賞できたのが嬉しかったようだ。初来日から数十年にわたって、二年に一度は一家そろって日本を訪れていた。

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