「暇な時なんていうものは存在しない・・・」

「知の巨人ドラッカー自伝」ピーター・F・ドラッカー著より。
この本の元は日本経済新聞の「私の履歴書」だった。それに訳者解説を加えて出来上がっている。これは訳者の牧野洋氏がドラッカーに「暇な時には何をしているのですか?」と軽い気持ちで聞いてみた時の返答だった。
その前に逆に「暇な時とは一体何だね?」と聞かれてしまったのだ。もちろんこれはドラッカーのユーモアだった。牧野氏は返答に困ってしまうが、ニタッと笑いながら答えたのが上記のフレーズだった。そして、さらに「私の場合、仕事をしていなければたくさん本を読む。きちんと計画を立てて、それに従って集中的にね」と付け加えていた。
要するに、暇な時という表現はドラッカーにはあまり似合わない言葉だったのだろう。つまり常に何らかの目的を持って時間を過ごしているのだという意味だろう。
そしてインタビューで「引退」の話になると自分の手帳を見せてくれたという。そこには、夏から秋にかけては、予定はびっしりと書き込まれていたのだ。その時ドラッカーはもう90歳を超えていた。しかもユーモアもたっぷりだったらしい。やはり巨人だと感じてしまう・・・

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健康ばかりか仕事面でも「明治人」ではない。
「知の巨人ドラッカー自伝」ピーター・F・ドラッカー著より。
これはドラッカー夫人のドリスさんのことだった。訳者の牧野氏の表現だった。ここでの訳者の解説のタイトルは“元気なドラッカー夫人”というタイトルだった。その時夫人はもう90歳を超えていた。
しかもパソコンを使っている。牧野氏がファックスるでドラッカーの連絡を入れると、ドリス夫人が自分のパソコンを使って夫に代わって電子メールで返事をくれることがたびたびあったという。
もちろん明治、大正は日本の年号だが、それに匹敵するほどの年齢という意味で使ったものだ。日本では大正生まれの人でもパソコンを使っている人はいないだろうに、明治生まれの夫人が使っているとは驚きでもある。
ドラッカー自身も90歳過ぎまで健康的でいられたのは、このドリス夫人のおかげだと認めていたのだ。彼女のおかげで定期的に泳ぎ、ハイキングに出かけ運動不足を解消していたのがよかったらしい。やはり健康の維持には無理のない運動が必要なのだろうか。

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ハーバードからの誘いを四回も断った人間・・・
「知の巨人ドラッカー自伝」ピーター・F・ドラッカー著より。
ハーバードといえば、アメリカの名門大学であることは誰もが認めるだろう。ニューヨーク大学では22年間も教壇に立ってはいたが、その間ハーバードから何度も誘いを受けていたのだ。
ふつうならすぐにでもその誘いに乗って移るだろう。しかし、ドラッカーは意外な理由でそれを4回も断っていた。最大の理由は、一月に三日間を超えてコンサルタントの仕事をしてはいけないという規定だった。
それに対して「マネジメントを教えるには実務経験が欠かせない」と主張したものの、ハーバード側は「事例を書くことで実務経験を得られる」と言うばかりで、一致点を見出せなかったのだ。
もちろんそれは金銭的な意味合いはまったくなかった。このことから、ドラッカーは単なる理論だけではなく常に今の現場感覚を大事にする学者だということもわかる。こんな教授の講義ならきっと内容のある講義に違いないだろうな。

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私たちはだれも、福袋を持たされてこの世に出てくるのではないか。
「福袋」角田光代著より。
たまたま正月ということでタイムリーかもしれないが、別に正月だけの話ではない。この一冊は8つの短編からなっているがその内の一つの小説だった。数週間前に読んだが、またざっと読み返してみた。
この文庫本の帯のコピー文(腰巻)にも“私たちはだれも、中身のわからない福袋を持たされて生まれてくるかもしれない・・・”と書かれている。この本のテーマなのだろう。
正月のセールに福袋はつきものだが、たいていは当たり外れがあるものだ。その時は中身にガッカリしても、そのうちそれさえも忘れて過ごすようになっていく。
そして、次の年にも同じようなことを繰り返してしまったりもする。そんな人には、ただ勝手な期待を持って買うというイベントの瞬間が楽しいだけかもしれない。
この小説では次のように書かれている。「福袋には、生まれ落ちて以降味わうことになるすべてが入っている。希望も絶望も、よろこびも苦悩も、笑い声もおさえた泣き声も、愛する気持ちも憎む気持ちもぜんぶはいっている・」と。
さらに「福と袋に書いてあるからといってすべてが福とはかぎらない。袋の中身はときに、期待していたものとぜんぜん違う。安っぽく、つまらなく見える。ほかの袋を選べばよかったと思ったりもする。・・・・」
この福袋から“お袋”(=母親)を連想してしまった。さらには“両親の期待”とも考えてしまう。たとえば子供が生まれたとして、なかなか親の期待通りには育っていかないもの。
こんな風に育てたつもりではなかったのに、とも思ってしまう。良いところも悪い点も。一体どちらに似たのだろうか・・・。でもどこまでも家族に違いない。(これは私の個人的経験からだが)

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生まれ付き「大物」「小物」というのは決まっている・・・
「私の小説論」車谷長吉著より。
まずは「物」ということについて述べていた部分があった。作家のことを「物書き」というが、それはたんに「物を書く」ということではなく、我々の中の「物が語る」ということだと氏は説明している。
これはあまり考えたことがなかった考え方だ。つまりどうしてもこれだけは書いておきたいという気持ちが書かせるモノ(物)という意味だろうか。
さらに、言葉は「物心」に飛んでいく。「物心」が付くというのは、人間の中に「魂」が発生することだという。これも新鮮な印象を受ける発想だった。そのあとで、「大物、小物」という言葉が出てきたのだ。「魂」、「霊」、「物」は俗語でいえば「肝っ玉」ということになるらしい。
そして、肝っ玉が小さく生まれた「小物」の人は、終生、肝っ玉の大きい「大物」にはなれないと述べている。言葉がどんどん出てくるところが面白く感じる。
そして、ここでは『私の父親のように、倅に悪徳弁護士になって、しこたま銭儲けをして欲しいと言うような人は、肝っ玉の小さい「小物」です。』と述べていた。
話がどんどん進んでいくが、いったいどこまでが本当の話だか、また本音だかわからない。そこが、この作者の持ち味なのだろう。自身もよくあちこちに書いているが「嘘つき車谷」と言われているそうだが。
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我われの中には、一匹の「虫」が息をしている・・・
「私の小説論」車谷長吉著より。
(前日のつづき)
やはりちょっと気になるワンフレーズだった。前日「物」について触れたが、それに似た言葉として「虫」があるともいう。
「虫が好く」「虫が好かない」「虫酸が走る」「虫の居所が悪い」などの言葉の例をあげている。ただの昆虫ではなかった。
この「虫」というのも人間の「魂」だという。理屈抜きに「虫が好く。好かない」ということを考えれば、確かに体の中に虫がいるようにも思えてくる。
さらに、言葉は「馬」にまで及ぶ。「馬が合う」は世間でよく使われる。だからこの場合の「馬」も「虫」と同じような「物」や「魂」「霊」と同じようなものになるらしい。
そこで、「物書き」というのは、これら「虫」とか「馬」について表現する人のことだという主張になっている。車谷氏の論法は分かるような分からないようなで面白い。

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