いかにして子供のように感じとることができるのか・・・

「科学と抒情」赤瀬川原平著より。
これは表現一般のことを述べていた。ある時赤瀬川さんは依頼で、「総合教育技術」といういかにもカタイ雑誌にエッセイを書いたのだ。テーマは私の受けた美術教育だった。
6人の人が書いていたが、安西水丸さんと長新太さんのエッセイがすごく良かったと感動している。それは子供のころの記憶をたどって、そのままが書かれていて、文章に鮮度があったからだという。
何より子供のころの実感がそのまま書くことができているところが素晴らしいと褒めていた。ところが、ほかの人のものは、子供のころに戻りきれていなかったという。
つまり今の大人の視点から、教育とは本当はこうあるべきだ、という意見で固められていたの面白くない原因だった。どうしても、今の大人の立場から書かれている文章は鮮度が鈍るようだ。
だからこそ、フレーズにあげた「いかにして子供のように感じとることができるか」が大事なことだったのだ。大人になればいろいろと知識は増えるものの、同時に失われる感性もあるものだな。
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家族の全盛期が終わった・・・
「家日和」奥田英朗著より。
この中の“サニーデイ”という小説の中にあった言葉だった。なぜか、考えさせられた。この主人公の家族の全盛期が終わったと述べていたが、考えてみれば私の家でも家族全員が揃って何かするということがなくなっていた。
つまり、子供が中学生ころになれば、家族で出かけるという機会もめっきり減ってしまう。子供らは家族よりも学校の友人関係や部活動がメインになってしまう。また受験ともなれば、なお一層子供らは忙しくなってくる。
この主人公の家では、まずピクニック用の折りたたみテーブルが不用になったので、インターネットオークションで売ることにしたのだ。そう言えば、私の家でも季節がいい時などは庭に折りたたみテーブルとイスを出して、朝食などを楽しんだこともあった。
そのうち、そのテーブルもイスも古くなって壊れてしまい、処分してしまった。庭の樹木を眺めながら食事をしたのは、いったい何年前のことだったかさえ思いだせない。やはり家族の全盛期(揃って一緒に行動するという意味で)は、かなり短い期間だったのかもしれないな。

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毎日やっていることだからこそ、おざなりになっていたり見落としたり・・・
「相鉄瓦版」2010.10月号より。
この号の特集は“やっぱり、お米でしょ!”だった。そろそろ新米が出回る季節になった。そこで、米穀店を経営している人の言葉が上記フレーズだった。
お米のとぎ方や炊き方をアドバイスしようとしても、耳を傾けてくれない人がいるという。つまりそれは「毎日やっているから」という理由からだった。
毎日やっているから、もうそれだけで十分だと考えてしまうことはあり得る。しかし、専門家からみればまだ関心や興味を持つことで得られることなあるという。
これはどんなことにも言えそうだ。たとえば、歯磨き、洗髪、洗顔、食器洗い、食事のマナーなど身近な所にいろいろあるものだ。時どき歯医者に行けば、もっとしっかり磨かなければいけないと注意、指導される。
どんなことも見直すべき時を大事にしなければ、いけないのかも・・・。誰かに言われる前にできるかなぁ〜。(う〜む・・・)

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多少なりとも役に立つ夫のことを親愛の情を込めて昔の人は「宿六」と称した・・・
「相鉄瓦版」2010.10月号より。
そして、ただ遊び歩くだけの役立たずだと「ろくでなし」となるようだ。こう述べていたのは東京で一番古いといわれる、浅草のおにぎり専門店「宿六」の二代目女将だった。
彼女によれば、おにぎりはかつてはぜいたく品として尊ばれたという。つまりそのころは白いご飯は「銀シャリ」とも呼ばれていた時代だったのだ。(開店は昭和29年)そして、深夜でも気軽に食べられるものでもあった。
今ではコンビニの売れ筋商品だろう。私も時間がない時など、時どき買うことがある。またそれとは別におにぎり専門店もあるが、こちらはまだ暖かいご飯が海苔にくるまれている。
実はこれを読んだ後に、おにぎりが急に食べたくなってしまい、おにぎり専門店に行ってしまった。コンビニのものよりも大きく、やはり握りたては熱々でおいしかった。
米もいつも食べているものよりも、おいしく感じたな。ランチセットには大きめのおにぎり二個(具は選べる)と惣菜と味噌汁がついていた。たまにはこんなさっぱりもいいかも。