科学と抒情というのはコドモ心の二大勢力である。

「科学と抒情」赤瀬川原平著より。
この本を購入したのは、もう15年ほど前だったが、たまたま隣の部屋の書棚を見たらこの一冊の文庫本が目に入ったので読み返してみた。すっかり本の存在も忘れていたのでタイトルが新鮮に思えた次第。
何か所にも棒線が引かれたり、書き込みがあった。しかし、読み返してみると何でそこに線を引いたのか分からない部分もあった。きっと当時と今では関心が変わったのであろう。と前置きが長くなってしまった。
さて、タイトルのフレーズは、“文庫本のためのあとがき”の部分にあったものだ。筆者によれば、ここでの“コドモ心”とは、シロート、アマチュアといい換えてもいいようだ。
ここで、赤瀬川さんは自身が関心があるカメラを引き合いに出していた。プロなら重くてもゴツくてもキズがあっても、まず結果第一のカメラを選ぶという。しかし、アマチュアは、結果よりむしろそれを持つ満足度で選んだりするらしい。手触り、重さ、姿の美しさなど「必要以上に」こだわってしまう。
そして、科学は「必要」のほうに属して、抒情は「必要以上」に属しているという解釈のようだ。これで、ようやくこの本のタイトルの意味が理解できた次第だ。赤瀬川さんはいつも目の付けどころが面白い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

飲水体験は水信仰のはじまりでもあった。
「科学と抒情」赤瀬川原平著より。
この水信仰というのがちょっとおもしろい。赤瀬川さんは22歳のころ、胃潰瘍の治療のためと思って、朝起きてすぐに大量の水を飲むことを勧められたという。しかし、それ以上に胃潰瘍はすすんでいて、結局手術するはめになったと語る。
しかし、健康体になってからも朝の大量飲水は欠かしていないという。水といっても緑茶だったり、その後はハトムギ茶、梅こんぶ茶と変わってきていた。
とくに酒をの飲み過ぎて二日酔いの朝などは、緑茶を飲むほどに頭はすっきりしてきたという。つまり大量のお茶療法だと思っていた。その時は緑茶信仰だったわけだ。
朝起きて大量の水を飲むと、体の中が洗われると感じているようだが、なんだか自分にはできそうもない。水を飲みすぎると胃がだるくなりそうな気もするし。食事する前に満腹になったらどうなるのだろう。むしろ体調が悪くなりそうな気もするが・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
澁澤龍彦さんは名前に力があった。
「科学と抒情」赤瀬川原平著より。
これは絵日記という形で書かれている部分にあったフレーズだった。そして、そのあとには「渋沢竜彦となると違う人に見える」と続いていた。同じ読み方でも画数や使われる文字で印象もかなり異なってくる。
そういえば、確かに文字の雰囲気で重みも違って見えてくる。さらに人物本人もあとの名前だと軽く思えてきてしまう。名前に力があると感じたのは仕事にも重みがあったからではないだろうか。
一般的なことになってしまうが、特に人の名前は読むのも書くのも難しい。身近なところでは、齋藤の「齋」にもいろいろな字体があって大変だ。斉なら簡単だが、齋だったり齊だったりすると手書きの場合は実に面倒だ。たしか6種類ほどあったろうか。
いつか名前に「寿」という文字がある人がいたが、実際は「壽」いやもっと複雑な字
だったかもしれないが、ご本人はスラスラと書いているのを見て感心してしまったことがある。
また、澁澤さんにもどるが、氏は赤瀬川さんの千円札裁判の時には証人として出廷してくれたという。これは澁澤さんが亡くなったときの絵日記だった。そこには、黒と白の表紙の本が描かれていた。
関係ないが、かつてある雑誌で澁澤さんの書斎の写真を見たことがあるが、実にクラシックな感じがして味があった。(いま部屋を探してみたが、その雑誌が何であったのか、どこに行ったのかは思いだせない。)