不愉快な刺激は、ある種の“エサ”だと思えばいい。

「天才になる瞬間」齋藤孝著より。
この不愉快な刺激の一つの例として、「キミにはムリだ」というのがあった。しかし、齋藤氏はそれは、自分の能力を開花させるチャンスでもあるという。
これは筆者自身が「子どもを教えることはできない」「英語はムリだ」といわれたときの経験からでもあった。逆に奮起して小学生を対象にした塾を主宰し、『英語を「じゅげむ」みたいにおぼえちゃおう!』という本まで書いていた。
エサだけもらっておいて、エサを与えてくれた人のことは無視するのがいいようだ。だから不愉快な経験は忘れるより、それを打ち消すほどの結果を出すための発奮材料と考えればいいことだった。
簡単に表現すれば、【不愉快な刺激】→【怒り】→【仕事や作品】となる。こんなふうにプラスに変換できればいいわけだ。

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平凡な仕事でも、それを“遊び”に変えてしまえば、・・・
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。
このあとには、「凡人にはできない結果を生み出せる」と続いていた。まあそこまでいかなくても、仕事が遊びと思えるくらい楽しく出来れば、当然ながらいい結果は望めそうだ。
逆にどんなに才能が豊かでも、取り組む仕事を楽しめなければ、100%の力を発揮できない。そこで、遊びの感覚で仕事をするために必要なのが“ガキの感性”だという。
ここでは北野武監督について触れていた。世界的な映画監督としての北野武の仕事には、ガキの感性が存分に発揮されていると齋藤氏はみている。
ヒットするかどうか、高い評価を受けるかどうかというリスクはあるものの、そのリスクを遊びのスリルとしているのだ。齋藤氏は、これは気合いの入った壮大な遊びと解釈していた。
一般にはガキから大人になるにつれて、そんなバカバカしいことはできない、と思ってしまうもの。しかし、仕事をゲーム感覚で楽しめることで、ある意味好結果も期待できそうだ。それがブレイクスルーにつながればいいのだが。

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“遊べる”というパワーは、量をこなすことにもつながる・・・
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。
これは仕事を楽しめるかどうか、ということを意味していた。仕事をつまらない作業だと思っているうちは、その量が増えるとつらくなってしまう。
しかし、それを遊びのような感覚で行えれば、量もこなせるのだ。齋藤氏の経験があった。教員にはテストの採点という恐ろしく単純で退屈な作業がある。
しかし、そこにゲーム感覚を持たせることで、意外に楽しくこなすことができるのだという。それは採点しているのではなく、ユニークな解答を発掘していると思えば、答案用紙は宝の山に思えるようだ。
すると、それはちょうど遊びに熱中している子どものように、疲れることも忘れて作業に没頭できるらしい。当然ながら、楽しい時間を過ごしている時は時間はあっという間に過ぎてしまうものだな。
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