偶然をまきこみ、必然にしていくパワー・・・

「天才になる瞬間」齋藤孝著より。
この言葉自体になんだか強さを感じた次第。天才というと、子どもの頃はなんだか単に頭のいい人のようなイメージがあった。
ところが、後に天才と言われるような人は、学業では落ちこぼれの人も多くいた。つまりある分野で並はずれた才能を発揮できた人という意味だと分かる。
一般の人たちでも、自分の才能をふと肯定したくなるようなことがあればいいのだろう。思いもかけずうまくいった時などはあるだろう。
しかし、それは一瞬の出来事で、長続きはしないかもしれない。この本ではブレイクスルーがテーマになっていた。自分の才能に目覚めた瞬間だった。
もちろんそれを求めることがはじめになければ、ブレイクスルーはやってこない。
成功体験があれば、それを蓄積することで、うまくいく機会が増えそうな気もする。だから、偶然さえも、巻き込んで必然にしてしまうというパワーが必要なのだった。

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社会で認められるための武器になるのは、再生よりも、“編集”する能力。
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。
前日も触れたように、学業成績と天才の能力とは必ずしも一致しない。ここでの再生とは、たとえば、教科書に載っている言語化された情報を正確に再生する能力を指している。
しかし、それだけでは人にはまねのできない自分だけのスタイルでものをかたちにすることはできない。大事なのはそれを自分だけのかたちにする方法をつかんだときだったのだ。
それがここでいうブレイクスルーの瞬間ということになる。例として天才音楽家モーツアルト(1756−1791)が取り上げらてていた。彼はその後長年にわたって世界で聞かれる旋律をたくさん作り上げていた。
とはいっても、いきなりゼロからすべてたいきなり出来上がって来たわけでもなかった。彼以前の音楽家の膨大な作品が蓄積されていたからこそ、アレンジによって自分なりの世界を作り上げることができたのだった。
情報を蓄積し、加工し、今までなかったものを創造してきたのだ。いま身近にある発明品の多くもそのようにして生まれてきている。この本の著者の齋藤氏も、それまでの膨大な蓄積があるから次々と読まれる本を生み出しているのだろう。
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“感動”や“ひらめき”というのは、たとえていえばトビウオみたいなもの。
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。
いきなりトビウオという表現が使われていたのが意外性があって、しかも適切な表現だと思った次第。このトビウオを持ちだしたことで実にわかりやすくなっていた。
ここでは世界のクロサワ、黒澤明監督(1910-1998)を引き合いに出していた。(そうか今年で生誕100年ということだった!)氏は今でも世界で絶大な評価を受けている。スティーブン・スピルバーグジョージ・ルーカスなどにも影響を与えていた。
そんな黒澤監督は、「創造とは記憶・・・」と述べていた。自分の経験や読んで記憶に残っているものがあるからこそ、創造できるということだった。
監督の好きな言葉に「悪魔のように細心に!天使のように大胆に!」というのがあるらしい。
まずはち密な計算が大事だということだった。その計算に必要なものが記憶だったのだ。記憶するためにノートを活用していたと語っている。感動したことをノートに残しておくことで、その後の仕事のヒントをつかめたようだ。
つまりちょっとしたことも海面に姿を現したトビウオをすくうようにノートに記録しておいたからこそ創造を生むことができたのだった。凡人にはこのちょっとしたことが継続できないのだな。

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クリエイティブな仕事に「メモ力(りょく)」は欠かせない武器。
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。
(前日のつづき)
これも黒澤明監督について述べられている項目で目にしたフレーズだった。当たり前とも思えるが、実際に武器として発揮させるためにはそれなりの量と内容が揃っていることが必要だろう。
最近ではケータイで簡単にメモることができるようになった。しかも珍しいと思った画像などもそのまま残せる。ところが、実際はそれだけで満足してしまい、その後十分に生かすことは難しそうだ。
機械まかせだと、どうしても十分とは言えない。私も時どきケータイのワンセグでテレビ番組などを録画するが、それを何度も見返すことが少なくなってしまった。
一番有効なのは、手書きのメモのようだ。それはいったん脳を通すことで、ちょっとした記憶も記録として残せるからだった。何でもデジタルの時代だからこそ、手書きのメモのほうがより生きてくるのかも。