減量には単に体重を落とすだけでなく、感覚を異常に鋭敏にする・・・

「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。
齋藤氏によれば、『巨人の星』と『あしたのジョー』はスポーツマンガの二大巨頭だという。とはいっても、最近の若い人にはほとんどなじみがないかもしれないが。
前者の原作者は梶原一騎で後者は高森朝雄だった。ところがこの両者は同一人物だった。ファンなら当然のこととして知っていたのだろうが、私は知らなかった。どちらかと言うと『あしたのジョー』のほうが大人っぽい雰囲気があったようだ。
さて、ここでは『あしたのジョー』からのフレーズだった。ボクシングには減量はつきものだ。だから、試合そのものよりも、減量しながらハードワークをこなしていく練習のほうがきついという。ボクシングとハングリーは切り離せないのだろう。
肉体から余計なものがそぎ落とされていくにしたがって、感覚も研ぎ澄まされていくらしい。もちろん、それを素人がやればとんでもないことになるのだろう。そのためにトレーナーや指導者があるのだろう。
減量しながら完全燃焼するということは、とてつもなく苦痛や苦労を伴うのだろうな。並みの精神の人間には決してチャレンジなどできない。それに比べれば、ダイエットなど軽く思えてくるが、それさえも難しい・・・

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スポーツマンガのもつ向上心・・・
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。
ここではクリーンなスポーツマンガの代表として、『スラムダンク』を取り上げていた。これはコミックス累計一億部以上を売り上げてた怪物スポーツマンガと言われている。
本格的にバスケットボールを取り上げていた。このマンガの影響で少年たちの間にもバスケットブームが広がったようだ。梶原一騎の泥臭さの感じられるスポーツマンガに比べてクリーンなイメージで女の子たちも惹きつけたようだ。
齋藤氏は、スポーツマンガのもつ向上心は、少年たちが一度はくぐってもいいものだと思っていると語る。だから、授業の時に教材としてもスポーツマンガを使うことも多いらしい。その中でも特に『スラムダンク』の場面を引き合いに出しているという。
たとえば、いじめにあったときにどうするか、友情はどうあるべきか、自分の弱点をどう克服していくか、プレッシャーにど立ち向かうのか、地道さをどう獲得していくのか、・・・など、マンガを通じて伝わってくるものがあるようだ。
しかも、単なる説教なら聞く耳を持たないものも、マンガならすっと入ってくるのかもしれない。齋藤氏自身、このマンガは近所の中学生に勧められて読んだのが最初だという。そして全巻を一気に読み通して感動したという。
さらには、そこに触発されて『スラムダンクな友情論』という本まで書いてしまっている。仕事をする前に時折、『スラムダンク』を読むとテンションが上がって仕事がしやすいと述懐している。

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量の積み重ねが質的な変化を起こす。それが技だ。
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。
これは『スラムダンク』のなかのことから筆者がとらえた感覚だった。主人公の桜木花道がジャンプシュートを一人合宿で練習していた時、安西先生に何回やればいいのか聞くと、その答えは「二万本」だったのだ。
たとえ五百回やっても身につかないものは二万をいう具体的な数字を出されてやりきることで、練習メニューを組め、技化が起こってくるらしい。そして、一度できるようになれば、その感覚は忘れることがないようだ。
むしろ、一度技化してしまうと、消し去るのが難しくなるほどだという。これは齋藤氏の経験からも語っていた。テニスのサーブやバックハンドをそれこそ十万回単位で練習した後では、テニスをやらなくても感覚が日常生活の中で勝手に蘇って、筋肉がピクピクしてしまうことがあるらしい。
技化とはそれほどまでにも恐ろしいことだと感じているようだ。そして、武道やスポーツでは、一万回から二万回の反復練習が、技の習得の一つの目安とされているのだった。

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型にはまっているだけでは限界がある。
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。
ここでは『バガボンド』を引き合いに出して語っていた。このマンガも『スラムダンク』と同じ井上雄彦の作品だった。吉川英治の『宮本武蔵』をマンガ化したものだった。
作品の質に対する評価も高かった。「講談社漫画賞」「文化庁メディア芸術祭大賞」「手塚治虫文化賞」を受賞していた。
さて、上記フレーズのあとには、すぐさま「しかし、型を持たない者は安定した力を発揮しにくい。」と続いていた。型に入って、型を出ることば武道、武芸の上達のプロセスだったのだ。
武蔵は型にはまった「剣道」の世界ではく実践の緊張感のなかで生きていた。生きるか死ぬか、何でもありの世界だったのだ。しかも自分なりのスタイルを持っていることも必要だった。
基本を身につけ、応用も可能な世界なら一般には、勉強(学習)や仕事(営業)の世界とも共通していそうだ。どちらも結果を問われるなら、ある程度の常識の範囲内であれば、何でもありと考えるべきだろうな。