どんなときでも、不完全になる“勇気”を持つことが大切・・・

「プレジデント」12010.2.1号より。
これは“究極の時間術「棚上げ・不完全法」”というタイトルで釜田浩毅(京大大学院)教授が語っているなかで見かけたフレーズだった。理系の釜田さんによれば、文系人間の多くは完璧主義の落とし穴に陥りやすいのではないかという。
たとえば、難しい古典や英文では、すぐにはわからない部分は後回しにして、つまり「棚上げ」して時間と手間を省いていったほうが効率的だという。しかし、こんなことは学生時代の試験では当たり前のことだったろう。しかし、仕事ではなかなかそういうことを忘れてしまっているものだ。
またもうひとつの「不完全法」とは、完璧な達成よりもむしろ時間、期限を守ることを優先すべきだという。ここでは研究論文発表を例に挙げている。つまりたとえ100%のデータが揃わなくても、論文は先に発表したほうが勝ちなのだ。
実際の仕事も同様で、いくら完璧にできたからといっても、期限の後だったら全く価値や意味もなくなってしまうだろう。代金の支払いも、納期も一日ずれ込んだりしたらとんでもないことになってしまうことも多い。一度失った信用を取り返すのは大変なことだ。
釜田さんをはじめ理系の研究者は、常に仕事の質と期限のバランスを念頭に置いて仕事をすすめているようだ。不完全でもいいという勇気は、いい加減を「良い加減」と置き換えて考えられるかどうかなのかな・・・

////・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちょっとしたおしゃれも、“遊び心”をつくる小道具。
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。
まずは、ある化粧品会社のアンケート結果の紹介があった。女性に「なんのために化粧をするのか」という質問があった。その結果「男性に見せるため」「女同士のライバル意識」「自分自身が楽しむため」が、それぞれ三分の一ずつを占めたという。
つまり化粧すること自体が楽しいということもあるようだ。化粧をすることで気分はかなり変わるということだろう。また単なるファッションばかりではなく、テレビではよく美容整形を用いたビフォー&アフターなどの番組もあるが、術後にはまるで性格まで明るく変わってしまう人もいる。別人に生まれ変わってしまうようだ。そのギャップが恐ろしいほどでもあるが。
男でも休日にひげを剃ったり新しい洋服や靴を身につければ、家にいるのがもったいなくなってくる。ちょっとしたおしゃれが心を外に向けてくれたりもするものだ。(とは言っても、休みの日には身だしなみを揃えるのも面倒な私もいるが・・・)
まあ休みの日でも、家でごろごろしているよりも、街に出かければそれなりに予期しなかったおもしろい風景に出くわすかもしれない。そういえば、地元のホームセンターに行った時、けっこう美味しいたい焼きを見つけたりもしたものだ。
ちょっとしたおしゃれをするという演出で、遊び心が生まれてくることは本当だろう。仕事着のスーツ姿じゃアイスクリームの立ち食いはしづらいが、普段着だったらそんなこともかなりお気楽に楽しめるか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


“まわり道”を持つことが、いろいろなアイデアを生みだす。
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。
筆者の知っている範囲では、仕事のできる人はあまり忙しい、忙しいなどとグチをこぼす人はいないらしい。そういう人は時間管理ができていて、きっちり遊びタイムも作っているようだ。
本田技研工業の精神は、“よく遊び、よく学べ”だという。仕事ができる人は過密なスケジュールの中から、時間を見つけ出しているのだ。日下氏は“忙しい人ほどよく遊ぶ”という印象をもっているようだ。
仕事に打ち込んでいれば、自然と仕事もうまくいって、うまくいけば遊び時間もとれるということだった。逆に仕事をちゃんとしていなければ、やり直が増えて、遊び時間もなくなってしまう、ということもいえる。
筆者はまた、その遊びというまわり道が、人間の幅を広げるというが、それも納得できる。さらにそんなまわり道をすることで、新しい発想も可能になるのだろう。ここにひとつダイオードを発見した江崎玲於奈氏の例があった。
ダイオードはある物質から“混ざり物”を取り除こうとしたときに、反対に“混ざり物”を増やした結果、発見した成果だという。
能率や効率ばかり考えていると、意外に素晴らしい発見にたどりつけなかったりもするかなぁ〜〜。実際に仕事でも、直接関係なさそうな雑学や雑談が意外に役に立ったりもするし。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
身銭を切ることは、自分自身を磨く方法でもある。
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。
まずは、人におごるということについて書かれていた。上手におごるということは、身銭を切るということだという。まあそれは当然のことだろう。ここにはおごり方のうまいある銀行の役員の話があった。
銀行は出世競争が激しいところで、足の引っ張り合いもあるようだ。銀行の人事は加点法より減点法になりがちなようだ。ちょっとした失敗でも足を引っ張られてしまう。
しかし、その人はふだんから部下、得意先、同僚におごることでそれを切り抜けたという。かなり無理をしたようだが、身銭を切ることが出世に結びついた例だった。ゴマをするというのとも異なっているのだろう。
仕事や付き合いで、身銭を切るっていうことは、それなりに真剣になるということではないだろうか。もしそれが会社の経費でやっているなら、たとえうまくいかなくても自分に痛みは感じないから、甘さが出てくることも考えられる。
そういえば、昨日のランチは競馬で勝ったからといって、職場の先輩におごってもらったな。身銭を抵抗なく切れるにはそれなりに訓練も必要なようだ。(何かお返しせねば・・・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
遊びとはあくまで浪費・・・

「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。
日下氏は、そもそも膨大な時間・金・体力のムダこそが、遊びの醍醐味だという。たとえば帆船の模型作りをする人がいる。それは人一倍の根気、時間や手間がかかる作業だ。またそれが完成したからといって、なんの役に立つわけでもない。しかし、その人にとっては作ることに没頭している時は最高の時間だろうし、完成した時の満足感はかなり大きいようだ。さまざまな趣味やスポーツに打ち込んでいる人ならみな同様な感動の時を持っているはずだ。
何かの役に立つことを目的としないことに意味があるのだった。遊びを仕事と結びつけたりしたら、面白くなくなってしまうかもしれない。遊びはもともとムダなもので、仕事に活かせたり役立つことは副産物程度と考えたほうがいいようだ。
もう何年も前のことだが、ホームページを作り始めたころ。ある友人にそのことを告げると、それって何かメリットがあるの?と聞かれたことがあった。彼はやること(遊び)にも、何かメリットをいちいち考えているのだろうかと思ったものだ。理屈抜きに面白いと思ったからやっていただけなのだが、そういう人にはわからないのだろうなぁ。
ブログだってほとんど同じことで、人によってはそんなもの継続していていて一体何が面白いのだろう?と思っているかもしれない。実際数年継続している人は、そのこと自体を楽しんでいるだけなのだろな。。。。人それぞれの価値観の違いは何にでもあることは確かだ。
日下氏は、ムダであるほど、浪費であるほど、遊びの価値も高くなるという。さらに、どうせ遊ぶなら、いい道具をそろえたいとも提案している。値段が少々高くても、テクニックのまずさを道具がカバーしてくれることもあるし。当然ながらいい道具を使いこなせる程度の腕は必要だろうが。しかし、いい道具を使いこなしてやろうと考えて前向きにやるのも一理ありかな。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


自分が、遊びの元祖になって楽しむ。

「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。

これは、“人とは違った遊びのすすめ”と題した部分にあったフレーズだった。この考え方は、実におもしろいと思った次第。つまり、まだ人がやっていない、新しい遊びをはじめて、自分がその遊びの“元祖”になると考えただけでも、なんだかワクワクしてきそうだ。
もしかしたら、はじめは「変なことをしている奴」と思われるかもしれないが、その面白さが周囲の人にも伝われば、それは立派な遊びともなる。後からやった人がさらに上達するかもしれないが、始めたのは自分で先生だともいえそうだ。
その分野では第一号というのもおもしろい発想だ。人より先に新しいスポーツにチャレンジしてみるというのもアリだろう。上達すればその分野のオーソリティかも。いつも人と同じ趣味では面白味も少ないか。
人にできない、人とはまったく異なる遊びを持っていれば、ヒーローになれることも夢ではないだろう。それで自分なりの個性の主張にもつながるだろう。
すると結果的に仕事でも自信が持てるようになって積極性が発揮できて、遊びも仕事もより一層楽しくできたり・・・。(理想ですがね)