真の学習は、自らの身体を動かしてのみ習得される。

「プレジデント」2009.12.14号より。
この号のテーマは「司馬遼太郎と幕末・明治の人物学」となっていた。その中で、茂木健一郎さんは「なぜ上に立つ者は司馬さんに惚れるのか」と題して書いていた。
年収1000万円以上のビジネスエリートに「好きな著者」を聞いたアンケートで一位に輝いたのが司馬遼太郎だったのだ。別にビジネスエリートに限らず、司馬文学のファンは国内なら幅広くいるだろう。
茂木さんは、どうして司馬遼太郎が選ばれているのかの理由をいくつかあげていた。司馬文学には「現代社会に通じるビジネス感覚や大局を動かす人物に共通する素質を読みとることができる」と語っている。
そして、ポイントは「実務感覚」が色濃く反映された物語ということだった。「実務感覚」とは、現場主義ということでもあった。ある事態に直面した時、問題解決するのに必要なのは、机上の空論では意味がない。
まずは行動力が大事なことだった。司馬作品に登場する人物たちはそれをしていたのだ。フレーズにあげた部分は、いかにも茂木さんらしい表現でもありそうだ。

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脳にはトリセツ(取扱説明書)がない。
「プレジデント」2009.12.14号より。
(前日のつづき)
これもまた茂木さんらしい表現に思えて、ちょっと気になった次第。司馬文学の面白さの一つは、歴史上の人物たちが生き生きと躍動する、その生命力の強さだと指摘している。「魅力的な個人」というのがキーワードだった。
たとえば、“坂本竜馬は現代的な感覚でいえば、大企業を自主退社し、自ら企業したベンチャー企業の社長のようなもの”という表現は面白い。当時、脱藩は大罪で、捕まれば死罪と考えれば、竜馬の決意はすごいものだったと気づかされる。
今輝いているのは、一部のスポーツ選手や芸能に携わる人が多いが、企業人、経済人、政治家にこそ「輝く個人」が必要とされていると茂木さんは語る。
しかし、どのように脳を鍛えたら、人生の正しい道を歩めるのかという解決書がない。つまりそれが、脳にはトリセツがないということだった。人生の正しい道を歩もうとか、そのための脳の鍛え方など考えたことなど考えたこともない。
さらに面白い表現は、「自分の個性を探るのは、まるで宝探しのようなもの。自分の頭にある脳という名の宝箱に何が詰まっているのか実は気づいてない人がほとんどである」ともいう。
それに気がついた人物は魅力的な人物(=輝く個人)だと言えるのだろう。そこで、司馬文学がウケている理由は「組織や肩書に頼らない“掟破り人材”」が描かれていることだったのだ。


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「志」こそが、最も教育することが難しい・・・

(前日のつづき)
「プレジデント」2009.12.14号より。
かつて司馬遼太郎は、自分が納得する小説のため、全力投球で執筆に専念していた。その結果あらゆる義理を欠いてしまい、大阪の街を顔を上げて歩けなかったほどだったという。
何事かをなすときに「すべてを犠牲にしてでもやり遂げる!」という「志の高さ」は必要だと茂木さんはいう。それは作品に登場する人物にも投影されているようだ。
英語や数学ならば、個人のスキルは他人が教え込むことはできる。しかし、肝心のやる気、志は他人が教えられるものではなかった。「志」が生まれるためには内面的な感情も豊かに発達していなければならなかった。
その点、司馬作品に出てくる人物には皆喜怒哀楽に満ちていたのだ。こんなところにも、「志」が生まれる基礎があったのだろう。ここでは、“「強い志」を持って作品に取り組む姿勢”をとり上げている。

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変化に向き合うときの「勇気と楽天性」。
「プレジデント」2009.12.14号より。
(前日のつづき)
茂木さんはここで「偶有性」という言葉を使っていた。これは「人生どうなるかわからない」ということでもあった。とくに幕末から明治にかけては「偶有性」に満ちた時代だった。自分の人生がどうなるかわからない。また国の行く末も確証が持てない時代でもあった。
つまり現代も同じように、景気は低迷したまま、少子高齢化が進んでいる、年金もこの先不安がある。何となく行き詰まっている気もする。もしこんな時代なら司馬作品の登場人物ならどう立ち向かっていくのかと考えても興味深い。
茂木さんはこの「偶有性のプリンス」の筆頭格は坂本竜馬だという。時代の宿命から逃げられず、真っ向から勝負した人物だったからだ。
その偶有性に向き合うための一つの大事な資質が「楽天性、明るさ」だった。そして司馬文学が魅力なのは、夢や希望を描いていたからだろうと分析している。


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「周囲が反対するときこそ、実行するべき」という信念。
「プレジデント」2009.12.14号より。
これは「ネバー・ギブアップ」というタイトルで書かれている中での、銀座テーラーグループ社長の鰐渕恵美子さんの言葉だった。ここでは“生き残るためには変わらなければ”というのがテーマになっていた。
それまで専業主婦であった鰐渕さんが、バブル崩壊後に社内の改革が必要だと仕事に取り組んだのは92年だった。放漫経営からの危機感を感じて生き残るための社内改革を行ったのだ。
まず当時男性だけをターゲットにしていたテーラーの世界に、婦人服を持ちこみ新しい市場を開拓しようとしたのだ。ところが、当然ながら古い社員からは猛烈な反対があった。そこで「反対するなら私の考え以上の提案をしてほしい」と訴えたという。
結局社員は「そこまで言うなら」ということで、鰐渕さんの指示に従ったのだ。彼女は二人の娘が通う学校の母親たちに服を売り歩いたのだ。(二人の子供が娘だったというのも幸運だったのだろうか、またそれを活かそうという着想もすごい)それが業務回復の原動力になり今では主力事業だという。
さらに社長に就任してからは、若い人たちの育成のために「テーラー技術学院」という教育事業を始めていた。会社の永続発展のために必要なのは、自社の業務に“究極の付加価値”をつけていくことだというのが信念でもあった。そして、銀座テーラーにとってのそれは、お客様の素晴らしさだという。それは、政財界のトップクラスの方々が会社を支持してくださっているからだった。
鰐渕さんは、『五年、十年先になって、お客に「そうか、銀座テーラー洋服屋だったのか」と驚かれるように進化したいものです』と語っている。それには必要なのは“ネバー・ギブアップ”の気持ちを持ち続けることのようだ。

ダーウィンの「種の起源」・・・「生き残るものは強いからでも賢いからでもない。環境に最も適応したものである」という部分もしっかり引用されていた。

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小さなものほど大きな思い出がくっついたりしているもの。
「うれしい日にはプレゼント」本田葉子著より。
これは贈り物についてのエッセイとたくさんのイラストによって出来てている一冊だった。自分がうれしい日には、誰かにプレゼントしたくなるという。また誰かがうれしい日にも「よかったね」のプレゼントをするという考え方だった。
つまり筆者の本田さんは、いっしょに喜びあいたい、いっしょに楽しみたいという気持ちを、プレゼントという形に変えて贈りたいと思っているのだった。
身近なところでは、ひいきのあるスポーツチームが優勝したら気の合う仲間同士で祝杯をあげるというのとも似ていそうだ。かつて、母校があるスポーツで優勝した時にはそんなことをした覚えがあった。別にプレゼントはなかったが、楽しいひと時を過ごせたものだ。また、打ち上げというのも仲間同士でいっしょに喜びを分かち合う機会かもしれない。
あげたり、もらったりしたものには、自分だけの思い出がついていたりもする。それは大きなもの、高価なものである必要はない。むしろ、小さなものに思いを詰め込んであるほうが印象深いかもしれない。


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雑草でも、雑草だからこそできる遊び・・・
「うれしい日にはプレゼント」本田葉子著より。
むしこのフレーズ自体よりも、ここでもアイデアが新鮮に思えたので書き残しておきたいと思った次第。雑草と言うと、自分が名前を知らない草をそう言ってしまうもの。だが、ここではしっかりと“へびいちごとオオイヌノフグリ”という2つの名称がでてきている。
筆者の仕事場の近くには、春になるとへびいちごの真っ赤なころころと産まれてくるという。確かにかわいくて、きれいでもある。(かつて私はこれをワイルドストロベリーと同じではないかと思ったほどだ。しかし、よく見れば、へびいちごの花は黄色で、ワイルドストロベリーの花はピンク色をしていた。)
本田さんはそれをいく粒かつんで持ち帰り、藍の骨董のお皿に入れて、オオイヌノフグリを周りを囲むように並べるのだそうだ。霧吹きでシュッと水をかければ少しは新鮮さを保てるらしい。
ティータイムの時間だけでも、テーブルにこんなものがあると華やいでくるという。食べれはしないももごちそうに思えるようだ。雑草だからこそ、お気楽につんで遊ぶことができるというのもいい。春夏秋冬季節のお皿を楽しめそうだ。
初夏には、自宅のブラックベリーでもやってみるかな。あれは食べてもけっしておいしくはないが、花や実は眺めるだけでもきれいなものだし。もちろん知らない野草でも可能なアイデアだった。