さあクリスマスだと教会へ行き、讃美歌を歌う、という人はあまりいな

「「産経新聞」2009.12.13付けより。
“邂逅”というコラムのなかで、赤瀬川原平さんが述べていたフレーズだった。そう言われてみれば、今盛り上がっているクリスマスは、ほとんどの日本人にとって、楽しむための口実みたいなものになっているように思える。
近所では、小さい子どものいる世帯では、夜になると自宅でイルミネーションを点灯させている。なかには家どうしでその光の点滅を競っているかのように派手な家もある。
自宅でも、数年前までは庭にクリスマスツリー(ドイツトウヒ)があった時には、イルミネーションを楽しんでいたものだった。しかし、木の背丈が伸びすぎてしまいとうとう切ってしまってからは、辞めてしまった。
クリスマスはプレゼントやふだん食べない料理などを楽しむためだけの行事になってしまったようだ。12月25日になったからといって、別に特別なことをするわけではない。
子どもらには楽しい季節でも大人にはあまり関係ないかな。キリスト教徒でもなければ、教会にも讃美歌にも無縁だろう。せいぜい、街中では今年も派手なイルミネーションをタダで眺めることができそれなりにうれしいことでもあるかな。

/////・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
漫才のボケとツッコミのような複眼の手法・・・
朝日新聞」2009.12.13付けより。
“仕事力”というコラムのなかで木村政雄さんが述べていたワンフレーズだった。木村さんはかつて吉本興業で売れっ子漫才師、やす・きよの担当マネージャーだった。それだけにこのでの話はわかりやすい。
ツッコミは普通の価値観、常識、建て前であったりする。ボケはそれに対して、あえて外す、別の側面から見たり、非常識な考え方に立っている。そこでの絡み合いが面白さにつながっていく。
木村さんは「実はどのような堅い仕事にも、漫才のボケとツッコミのような複眼の手法が役に立つ」と語っている。まじめで几帳面だからといって仕事がうまくいったり、実力があるとは限らない。むしろ面白く斬新な企画を出せる人はボケの部分かもしれない。
クレームを恐れるあまりに、思い切った意見がでなかったり、仕事が行き詰まってしまうこともあるだろう。そんな時には、一人、あるいはチームでボケとツッコミをやると突破口が開けるかもしれないと提案している。
その結果人といきいきとかかわるコミュニケーションの力もつくはずだという。もしかしたら意識的にボケの練習をすれば、頭がボケるのを遅らせられるのだろうか・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分の鮮度を保ち、賞味期限を延ばしていく・・・
朝日新聞」2009.12.13付けより。
(前日のつづき)
もし、仕事であるポジションについてしまうと、そこから守りの姿勢に入ってしまい新しい考えができなくなるという。しかし、仕事をするうえでは一番危険だという。人の意見を素直に受け入れられるかどうかが問題のようだ。
ここではある成功してギャラが高くなった司会者について語られていた。不景気で番組の予算が苦しい時、主役を若いい人に譲って、自身は脇に回ってギャラを下げて現場に残ったようだ。
ところが、もう一人の人気司会者は、あくまでメーンであることにこだわった結果、画面で姿を見ることはなくなったという。たとえ、主役ではなくても生き延びる道を選べるかどうかという柔軟性の問題だろう。
時代や周囲の状況によって常識や非常識は入れ替わることもある。肩書もいつまで続くか危ういもの。部署や職場から一歩出たら他人から見れば、ただの人にすぎない。
そういえば、プロ野球の投手も初めは先発型でも、その世界で長年生き延びる(つまり賞味期限を延ばす)ためには、後半は中継ぎや抑えに転向できるかどうかにかかっているのと同じだろうな。