「次は何をやろうか」というワクワク感・・・

ホームページ「どらく」2009.10.15より。
三宅祐司さんのインタビュー記事の中のワンフレーズだった。しばしばラジオやテレビではバラエティ番組の司会者として活躍するが、本業は喜劇役者だった。しかも、劇団は今年で創立30周年にもなっていた。
ここでは、継続するために秘訣のようなものが語られていた。三宅さんは公演が終わると、「次はもっとおもしろいものを作りたい」と思うそうだ。同時に“次は何をやろうか”というワクワク感もあったようだ。
さらに、劇場は一年前に押さえておかなくてはならないことも、次につなげる要因にもなっていたのだ。もう場所を抑えたら、次をやらななくてはならないというノルマにもつながるのだろう。
やや蛇足になるが、三宅さんが芝居をするようになったのは育った環境が大きいようだ。それは子どもの頃から芸事になじんでいたからでもあった。母が日本舞踊の師匠、叔母が松竹歌劇団員、また自身も長唄、小唄、三味線、日本舞踊を習っていたのだ。
おまけに歩ける距離に映画館が4館あったという。映画ではコメディーを好んで観ていたようだ。やはりいろいろな芸事が身近にあったことで、その後も芝居をすることがスムースにいったのだろうなぁ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ついついあれこれと頑張って準備してしまう。

ホームページ「どらく」2009.10.15より。
ここでは三宅(祐司)さんは「準備」ということについて述べていた。やっている芝居はコメディーということもあって、公演のたびにギャグ表をつくっているという。2時間ちょっとの芝居に110〜120のギャグを盛り込んでいる。平均すれば1分に約1回だ。当然ながらそれだけつくるにはのたうちまわるらしい。
舞台は当然として、テレビの司会でもきっちりと準備をしてのぞんでいるようだ。30年の芸歴があるにもかかわらず、準備は欠かさない。失敗するのはその場の雰囲気で何とかなるだろうと思っているときのようだ。
いつも周囲に満足感を与え、期待を裏切らないように心掛けている。とくに打ち上げの席で「じゃあ最後に三宅さんひと言」と振られたときは大変なような。キメの言葉を喋るとき、いつでも「やっぱり三宅さんが仕切るとおもしろい」と言われるために頑張って準備してしまうらしい。
本来の仕事が終わっても軽く流さないできっちり最後までスタッフ、仲間まで満足させようとするサービス精神はやはりプロを感じさせる・・・な。
(このインタビュー記事を読んだら今公演中の芝居を見たくなってしまい、思わずチケットを買ってしまった!これも“ついあれこれと読んでいるうちに頑張って準備してしまう”、ことだろうか・・・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三つ目の趣味が彼を人生のピンチから救う・・・
「二十億光年の孤独」谷川俊太郎著より。
すでに知名度も高い谷川さんだが、「二十億光年の孤独」は1952年に初めて出版された詩集のタイトルだった。これを書いたのは18歳の頃だった。またここで取り上げたフレーズは解説の山田馨氏によるものだった。
谷川さんはもともと集団生活にはなじめなかったようだ。学校嫌いで、教師への反抗、不登校学力低下という悪循環が少年(谷川さん)を追つめていた。なんとか高校を卒業しても、大学にも進学したくなかったようだ。
つまり親のスネをかじるしかなかった。鬱屈を忘れるための当時の趣味は模型飛行機づくり、ラジオの組立て、詩をつくることだった。
そこで業を煮やした父から「おまえどうする気なんだ、大学にも行かないで」と問い詰められて「こういうものを書いています」と二冊の大学ノートを差し出したという。
するとその詩を読んだ父は、鉛筆でに◎や○で詩にランクづけをしていったのだ。息子の詩に興奮し衝撃をうけたという。その父とは谷川徹三という哲学者であったが、若い頃は自身も詩を書き、文芸批評をしていたのだ。
もちろん詩はそれだけのすごい迫力を持っていたのだろうが、たまたま父がそれを評価できる人物だったというところから谷川さんの人生は大きく変わって行ったのだ。ちょっと驚くべき偶然・・・?必然・・・?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「自分の前にある世界の一部を見て、ことばという部品をつなげていく・・・」
「二十億光年の孤独」谷川俊太郎著より。
(前日のつづき)
これは谷川さん自身のことばだろう。たまたま谷川さんお父が詩について評価できる人物だったというだけでは済まなかった。父、徹三氏は即刻友人である詩人三好達治にその大学ノートを送りつけていたのだ。
三好もその詩の新鮮さに驚いたようだ。そして、さっそくそのノートから六篇の詩を選んで、文芸雑誌『文学界』に推薦し、その年の12月号に掲載されたという。
なんとお先真っ暗だった少年が新人として詩壇に姿を見せることになったのだ。始めから詩人になろうと思ったわけでもないのに、このとき人生は動きだしてしまったようだ。すると、ある出版社が単行本の出版を申し出てきたり。
ここでの解説者山田馨氏は「明晰なことばで組み立てた工芸品のような詩・・・」と表現している。谷川さんは新進詩人となって、インタビューをうけたりエッセイを書きながら生活が成り立っていったようだ。
才能があればこそ、その後も活躍できその世界で第一人者となれたのだろう。いくらチャンスに恵まれたからといって、その後が継続できる人は稀ではないだろうか。俗にいう一発屋は多いかもしれないが。
関係ないが、この文庫本は後ろからめくるとすべての詩に英訳がついている。なお、タイトルは“Two Billiion Light-Years of Slitude”となっていた。