麻薬中毒的なケータイ依存症。

「壊れる日本人」柳田邦男著より。
つまりケータイなしではほとんど生きられないくらいな状態を指すのだろう。いったんこの便利さを味わってしまうと、それがなくなると実に不便に感じるという意味では、いま使用している誰もがケータイ中毒になっているのかもしれない。
ある大学では夏季に短期留学制度で学生をアメリカの大学に行かせていた。ところがその大学ではケータイ電話の使用が禁じられていたという。すると学生たちは、いつも何かが満たされないでいるような、不思議な不安定感にとらわれたらしい。
なかには気持ちが落ち着かなくて、日が経つうちに、焦燥感さえいだくようになった学生もいたらしい。そして、ケータイがない生活になれるまでに二週間もかかったという。周りのみんなが同様に使わければ、ある程度安心感もあるのだろうか。
また同時に重要な変化が起きたのだった。学生たちはケータイが使えないので、だんだんと物事を自分でゆっくりと考えるようになってきたのだった。きっとそれまでは、わずかな不安でも自分で深く考えることもなしに、ケータイで誰かに相談して結論を求めていたのだろう。
そうそう、この本のサブタイトルは“ケータイ・ネット依存症への告別”となっていた。時にはそれらを忘れることで、なにか新しい気分になれるかも。


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総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。

「壊れる日本人」柳田邦男著より。

今の小中学生のほとんどは生まれたときから、インターネットやケータイが当たり前に家にあったのではないだろうか。文通をするという意味もわからないかもしれないな。
ケータイは確かにスピードという面では便利ではあるが、別の面ではじっくり考えて結論を出すということを忘れさせていたのかもしれない・・・な。ケータイのメールも国内外にかかわらずすぐに届いてしまう。かつての文通という言葉は死語になってしまったかもしれない。
高校生頃には海外の学生の方たちと文通をしたことがあるが、じっくり考えて書いていた覚えがある。そして数週間後の返信も待ち遠しかったもの。相手の個性的な筆跡、インクや便箋の色、お国柄の封筒、貼ってある切手など、一通のエアメールにもいろいろな楽しみがあったものだ。
手紙の文字もいったん書いては消したり、訂正されたりしている部分にもじっくり考えながら書かれたものだと感じたりもしたものだった。デジタルの文字と違って個性が生で感じられるところも嬉しかったものだ。
今の時代は若者に限らず、総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わないのだろう。むしろケータイやネットを使わない人のほうが変人と思われるかも。まあこんな麻薬中毒的なケータイとは全く別世界の、古き良き一時代を過ごせてよかった・・・かも。

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「事件にならないと動けない」という姿勢・・・
「壊れる日本人」柳田邦男著より。
この章のタイトルは「水をかけない消防士」となっていた。これは作家の井上さひさしさんが柳田さんに話をしたことだった。井上さんの自宅がボヤになったので、119番に通報して消防車が到着したものの、隊長らしい人物は「もう少し火が大きくならないと、放水するわけにはいきません」と言われ、二の句がつげなかったという。
一定の規準以上に燃えていないと、放水はしないという決まりがあるようだった。結局、くすぶっている火に自分たちで水をかけて、ようやく鎮火させたという。確かに、放水によって水の被害が大きくなることも考えられる。しかし、そんなことを言う前に、率先して何らかの方法で鎮火に努めるべきだろうな。その後の説明なら納得できそうな気もするが。
しかし、実際には殺人事件の現場でも似たようなことが起きている。子どもが行方不明になったのでその捜査の依頼を両親がしたところ、「事件にならないと動けない」と警察は言って対応しなかったのだ。その間疑わしかった不良グループに監禁され殺害されていたという実際に起きた事件だった。
実際に被害にあってそれが確認されなければ動けないというのは、庶民からすると納得できない。警察はむしろ事件が起きないように、捜査するのが務めなのではないだろうか。ちゃんと始めから捜査していれば、今までも未然に防げたかもしれない事件だってかなりあったに違いない。こんなマニュアルにばかり縛られていたら、本当の安心や平和はいつまでたってもやってこないだろうな。

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親が朝から晩までテレビをつけっぱなしにしている家庭・・・

「壊れる日本人」柳田邦男著より。
こんな家庭では乳幼児の心の発達にゆがみが生じてきていることがわかってきたという。これは日本小児科学会での実態調査の結果だった。
どんな内容だったかといえば、乳幼児から長時間テレビを見ていた子どもには、言葉の発達がおそく、表情も乏しかったという。さらに親と視線を合わせず、いっときもじっとしていないで、人とうまく関われない子が目立って多くなっているなどだった。
それが、子どもにテレビを見せなくしたところ、これらの傾向が改善されたという報告もなされていたのだ。日本より5年前には、アメリカの小児科学会では、「二歳未満の子どもにはテレビを見せるな」という勧告を発表していた。同様の理由からであろう。
筆者は、「ノーケータイデー」「ノーゲームデー」「ノーインターネットデー」「ノー電子メディアデー」などを提案していた。電子メディアとは、テレビ、ビデオ、ゲーム、ケータイ、パソコン、ネットなどの総称だという。
もし、そんな日を自主的にでも設けたら時間がかなりゆっくり過ごせそうな気もしてくる。「異常なこと」がことごとく「普通」になってしまっていると筆者は指摘している。便利さ一時の楽しさの反面失っているものもあることに気付かねばな。