何事でも自得する以外に極意に達する道はない。

白洲正子自伝」白洲正子著より。
白洲さん自身は薩摩隼人の子孫ということもあり、ぜひとも薩摩の示現流という剣法を確かめたかったという。祖父はこの使い手だったという。ようやくその稽古に立ち会うことができ見学していた。
それは初太刀の一撃に生死をかけるという攻め技の剣法だった。稽古の基本は簡単で、ただ走ってきて立木を打つというものだった。しかもそのために全身を集中せねばならない。簡単な技ほど難しいようだ。
ここで驚くのはこれを朝に3千回、夕に8千回繰り返すのだ。いったいどれほどの時間がかかるのだろう。並大抵の努力では続かない。これを繰り返して足腰、筋肉が鍛えられていくのだった。また動作も敏捷になるようだ。
結局そのような修行を続けていくうちに、極意は向こうから歩み寄ってくるという考え方もあるらしい。まるで禅の修行のようにも思えてくる。
とにかくあれこれ理屈で考えるより体で覚えていくことは、日常生活でのいろいろなことにも通じていそうだな。さまざまなノウハウは言葉ではなく、自分で体得して身につけるものかな。

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父母は何一つ教えてくれなかったし、叱られたことは一度もない。

白洲正子自伝」白洲正子著より。
これは、白洲さん自身のことを語っていた。ある意味、実にすごく珍しい家庭に育ったものだと思える。自身はそれが薩摩隼人の気風だったかもしれないと振り返っている。
言葉には出さないものの、そのかわり変なことをしたら有無をいわせぬといった気配は目配せにも感じられていたという。だから甘やかせるだけの親ではなかった雰囲気がある。子どもは親の後ろ姿をみて学んだというやつだろうか。
しかし、叱られたことがないということで、両親は正子さんのわがままにはかなり我慢して付き合ってくれたようだ。それは次のエピソードでもわかる。
小学校へ入る前に、富士山へ登りたいとダダをこねたこと(その後6歳でお供と一緒に登っている)。14歳の時に一人でアメリカに行くといってゴネたこと、(4年間留学していた)。18歳の時にあばれんぼうの白洲次郎と結婚させねば家出をするとおどかしたことなどだ。
両親は結局はどのわがままも許してくれたのだった。恵まれているといってしまえばそれまでだが。こんなことからも子どもの頃から気が強かったこともうかがえる。
(うちの子供らは気が強いが親に叱られないことことはない・・・教えてもほとんど無視をする・・・困りもの。これも大いに甘えていることに違いない。親(私)がだらしないからかも・・・う〜む・・・)

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彼にはその時必要であった五万円と、使うアテのない二百五十万円の間にさしたる区別もなく・・・

白洲正子自伝」白洲正子著より。
ここでの彼とは白洲さんのお兄さんのことだった。平成元年に亡くなられていたが、昭和天皇と同年の丑年生まれで、天皇に遠慮して丑二(ちゅうじ)という意味で名付けられたようだ。英語が上手で、スポーツの達人だったという。
テニス、スキー、ゴルフもはじめると、すぐに上達してしまったようだ、なかでも、狩猟と魚釣りは名人の域に達してしたという。どれも趣味のままで終わったようだ。実生活の面ではゼロに等しく、いつも金には困っていたという。しかし、そんな素振りも見せなかったのは、陰で助けてくれる人がいたからのようだ。それだけ人望があったのだろう。
フレーズにあげたのは、そんな兄の骨董好きの友達が遊びに来た時に、推古時代の金銅仏をいくらぐらいで売るかと訊いたようだ。そのとき五万円が欲しかったので、その値段で売ってしまったのだ。するとその二週間後に本物の骨董屋がきて二百五十万円で譲ってほしいといったらしい。
しかし、すでに五万円で売ってしまったが、大してがっかりもしていなかったという。白洲さんはこの大馬鹿野郎!とののしったが、あとでよく考えればこれは自分の負けだったかもしれないと振り返っている。
いくら金額のケタが違っていても、どうしてもその時に必要ならば、その時のお金の方が必要のない時の大金よりも価値があるのだろう・・・な。明日の百より今日の十という感じかな・・・

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ふだんなもの、何でもないものが却(かえ)ってただごとでなく思われて、そこに自分の仕事の始末とでもいうものが在るのではないか・・・
白洲正子自伝」白洲正子著より。
以前銀座の「こうげい」(取扱いは着物がメイン)という店を経営しているとき、多くの製作者と話をするのが好きだったという。その中の一人織物の田島隆夫さんという方に何気なく話したことを後まで覚えていたので喜んでいた様子が書かれていた。
話は絵巻物の一つ一つの絵をつなぐ間として描かれてところについて白洲さんが述べたところ、それを田島さんは自分の仕事の在り方と重なる部分があると感じたのだ。それが印象に残ったのは、晴着よりふだん着を織っていこうと考えていたからだった。
上記フレーズからは、人は誰でも一見派手な仕事をしたがるかもしれないが、日々の地味な仕事のなかにこそ大切なことや真価があるという意味にも捉えられる。
白洲さん自身が無意識に喋っていたことの中からさえも、一番大切なことをしっかりと受け止めて自分の仕事にいかしてくれたのことが嬉しかったと語っている。




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ほんとうのクリエーターとは、自分自身をクリエートすることにある・・・
白洲正子自伝」白洲正子著より。
前日の続きなるが、「こうげい」に遊びに来ていた人の中には当時大学生で身体も弱そうに見えた三宅一生さんもいたという。その頃まだ珍しかったデザイナーを志していたがはたしてこのようなか弱い青年が困難な仕事に堪え得るかと心配していたようだ。
しかし、その後世界的なクリエーターに成長した姿をみて白洲さんも喜んでいる。その後、三宅さんはデザイナーの仕事があっていたようで、心身ともに健康になっている。
そこで、白洲さんは“ほんとうのクリエーターとは、自分自身をクリエートすることにあると思う”と述べている。白洲さん自身はこのクリエーターという言葉は好きではないらしいが、ここではあえてデザインではなくさらに大きな意味でクリエーターという表現を用いたのだろう。
単にモノを作っていくということだけでなく、私たちも自分自身の人生をクリエートするのは自分だけだとも言えそうだな。