瞑想のような時間、自分と向き合うひととき。

ホームページ「どらく」より。
先日、世界陸上選手権(ベルリン)は終了しましたが、日本人にとってもっとも注目されたのは女子マラソンではないでしょうか。最終のスパートでは中国の白雪選手に差をつけられてしまったものの、尾崎好美選手はみごと銀メダルに輝きましたね。
そのテレビ解説は増田明美さんと高橋尚子さんでしたが、上記フレーズはインタビューのなかでの高橋さんの言葉でした。高橋さんは今年3月に現役を引退したばかりで、テレビキャスターなどで活躍していますね。
上記は「どうしてそんなに走ることが好きなんでしょう?」という質問に対しての答えだった。その前には、「走っているといろんな風景を見ることができるし、いろんな人に出会えるから」とも述べていた。
あんなに早く一生懸命に走っていながら、風景も眺める余裕があるとは驚きだった。またそれくらいの余裕がなければ、世界のトップレベルで活躍できないのかもしれないな。かつてシドニー五輪で金メダルをとった翌日も走っていたというから、走ることが身に沁みついているのだろう。
走るほど気持ちがよくなり、考え方もポジティブになっていくという。やはり好きなことに熱中すればするほど、そのほかの面でもいい影響が出てくるということでしょうかね。
また驚いたことには、どのコースも1回走っただけで、1キロ単位で景色を把握してしまうという。とはいっても地図は苦手らしい。アスリートはやはり理屈より体で覚えてしまうのだろうな。
今では走る楽しさを伝えることが仕事だと考えているようだ。市民マラソンランナーがどんどん増えているようですが、私の周りにはそんな人は見当たらないが。

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プラスマイナス2秒までは許せるが・・・

ホームページ「どらく」より。

高橋尚子さんの選手時代のことを語っていたが、プラスマイナス2秒とは1キロを走ってのことだった。それが3,4秒違ってくると実に厳かったようだ。コーチに「4分ペースで40キロをひっぱって」といった場合の許せる範囲がプラスマイナス2秒だったのだ。
「命をかけて練習しているんだから、ちゃんとひっぱって!」というくらいストイックだったという。というのも3,4秒の違いだと40キロ走っていれば1,2分も変わってきてしまうからだった。
確かに計算上ではそうだろうが、それだけ自分に対して厳しかったということだ。しかし合宿中に自分でそれをクリアー出来きず眠れない状態が続いたという。
結局そのプラスマイナス2秒という範囲で走れないことで、現役引退を決意したようだ。自分らしくない走り方では妥協できなかったということだった。その後解説の仕事をしてから、ほかの選手のインタビューをして高橋さんは驚いたことに気づいていた。
それは自分が大会の前には相当の距離を走っていたことに気付いたからだった。自身は本番前には40キロを12,3本走るのが当たり前だったという。
ところが、よく走っている選手でも4本ぐらいだったからだ。振り返ってみて「もっと自分に甘くてもよかったのかなぁ」と語る。夢中になってやっていると、たとえそれが厳しくても当たり前になってしまうものかな・・・


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私だけ、「こいつは将来すごく悪くなるぞ」と言われた。
朝日新聞」夕刊2009.8.24付けより。
これは“人生の贈りもの”というコラムのなかで、俳優の仲代達矢さん(76)が父親が亡くなる直前に言われた言葉だった。それにしてもインパクトがある言葉だ。その時仲代さんは7歳だったという。
ふつうこれほど幼い頃の父親の言葉などそうそう後まで覚えているものではないだろう。幼い頃父親を亡くし、さらに母親も病弱だったこともあり戦前戦後を通じて困窮を極めたと語っている。
終戦を迎えた時は中学1年で、周囲の大人たちが8月15日を境に、「鬼畜米兵」から「親米派」に変わったのを見て、「人間は信じられない、特に大人は信じられない」と子ども心に思ったという。
そして、絶望と困窮でやくざになった人もいたそうだが、仲代さんは父の言葉があったので、そうはならなかったと述懐する。「おれは絶対悪くならないぞ」と子ども心に誓ったことが大きかったらしい。
後に俳優になった際に、演技をけなされても時に「何をいっているんだ」と思える強さも培われたという。その意味では、父は偉大な教育者だったもしれないと語るが、よほど父親の言葉が身にしみていたのだろう。
今すぐ親の言葉は思いだせないが、この機会に、戦前戦後を通じてかなり苦労が多かったにも関わらず、私を何不自由なく育ててくれた両親に感謝せねばと思った次第。

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生まれてはじめて口にした言葉は、「バカヤロウ」・・・
白洲正子自伝」白洲正子著より。
旧白洲邸の「武相荘」(ふあいそう)を訪ねたのは、今年の夏の中ごろだった。そのうち、と思っているうちに今年になってしまった。戦前に農家を買い取ってそこに白洲家は住んでいたのだ。最寄りの私鉄駅からはバスで5分ほどで、帰りは歩いても15分程度だった。
その帰りに買った一冊が、この本だった。新潮文庫の1冊になっていた。上記フレーズはかなりのインパクトがあったが、それも読むうちに納得してくる。白洲さんは子どもの頃、いつも不機嫌だったようだ。
3歳になってもほとんど口をきかず、むしろ自閉症に近かったのではないかと、後に書かれている。生まれつき、勝気で負けず嫌いの性分だったらしい。その原因は父方、母方の祖父とも海軍の軍人で「この子が男の子だったら、海軍兵学校に入れたのに」とふた言目には残念がっていたのを耳にしていたからでもあった。
そして気に入らない医者が診察に来た時、ひと声叫んで、布団を蹴って逃げ出したことさえ覚えている。実に80年近い昔の子どもの頃のことをよく覚えているものだなと感心してしまう。この本の中では、何度か度胸のよさは薩摩隼人の血が流れているからだとも述懐している。
また、万事についてそんな調子で、男の子としか遊ばず、自分のことを「ボク」といっていたようだ。人づきあいが悪く、いつも仏頂面でいたのは、裏を返せば甘ったれに過ぎないと後に自己分析している。
それだけ裕福だったという証拠でもあるかもしれない。しかし、生まれつき恵まれた環境で育ってしまうとそれが当り前のようになってしまうのだろうな。普通の人ならそれに流されてしまうだけかもしれない。その後かなりの名を成したということは、自分にもなかり厳しかったということだろう。